20081123

僕の図書館


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Originally uploaded by hiroomis2008
僕の図書館の喫茶が今度のクリスマスで閉店する。この街に越して以来足繁く通った図書館だ。初めてここへ来たときに図書館で軽食を注文できることに強く心を打たれた。昼時ともなれば館内に焼きそばの香りが充満し、本にとっては決してよい環境であるとはいえないが、そのにおいに誘われて休みのたびにカメラをぶらさげて通った。正午まではモーニングがあり、トースト2枚にゆで卵とコーヒーで300円の優雅な時間を過ごせた。朝寝坊だった僕はよく12:00ぎりぎりに駆け込んだ。ほんとうに狭い狭いキッチンに、ちょうど10年前の当時は二人のおばさんがモクモクと働いていていた。静かな館内に焼きそばを炒める音だけが響く。二人の中がギクシャクしている雰囲気を醸し出している時期もあったり、どちらか一人しかいない時期もあった。そんなときは心が疲れているのではないかと勝手な妄想で心配したりした。生姜焼き定食やハンバーグ定食なんてメニューまでかつてはあった。そのうちおばさんが一人やめて、残ったおばさんが調子が悪い(それも勝手な想像であるが…)ときはよく店が閉まっていた。注文が少ない午前中はいつも狭いキッチンに腰掛けて静かに本を読んでいた。
僕が会社を辞めてふらふらしているときは、家から外に出るきっかけをいつもこの図書館で見つけていた。10年も世間話らしい会話もすることなかったのだ。
カウンターの下に貼られた営業日を記入した小さなカレンダーに店が終わってしまうことがそっと書いてあることに気づいたのはかみさんだった。最近は節約生活で外食することも少なくなっていて、図書館での食事の回数もめっきり減っていた。今日の昼食を久しぶりに子供らを連れて図書館でとることにした。
思い出してみると子供が生まれる前からここでおばさんの絶品うどんを食べ、コーヒーをすすっていた。7歳の息子が生まれたばかりのころ、僕が仕事もせずにカメラをさげてA型ベビーカーを押して何処までも散歩に出かけてく日の朝もここのうどんから始まっていた。うどんであれば哺乳瓶のチビと食事を分けることができた。図書カードを作ってあげてチビが分で本を探すようになっころには、何も言わなくてもプラスチックの味噌汁茶碗が机のうどんの横に置かれていた。何度か息子はガラスのコップを割ったし、夫婦で子供を目の前にここで諍いを起こしたりもした。二人目もここのうどんがお気に入りだ。いつもおばさんがそこにはいたのだなぁと今感じている。天気の話さえもしたことがないというのに、おばさんも年をとったし、僕もすっかりメタボになった。
秋のはじめ、蚊の残党が返却カウンターの白いテーブルの上をヨイコラ飛んでいた。返却しようとカウンターに置いていた本をとっさにつかみ奴めがけて一発食らわしたところ、その本の上に追い打ちをかけるように面と向かって座っていたカウンターのお姉さんの平手が加わった。僕とカウンターのお姉さんの視線はつぶされたであろう奴に覆い被さった本とお姉さんの手の甲を見つめていて、しばしの沈黙でお互い目があった。「あはは~、こんなこと図書館の本でしちゃいけないんですけどねぇ~あはは…ははは」お姉さんは僕のおかげで本で蚊を殺す羽目になってしまったのだが、少し気を揉んで、同僚に聞こえるように結構通る声でつぶやくと僕の顔もつられてにやついてしまった。この地域の図書館は数年前から業務が民間に委託されてからは見慣れない顔が多かったのだけれど、喫茶のおばちゃんだけはずーっと変わらなかった。その日、共犯のお姉さんは老婦人が本を探しに来た際も「ばかのかべは今は貸し出し中ですけど、同じ筆者のチョウばかのかべなら在庫ございますよ!」って、やっぱり通る声で受け答えしていたものだから、婦人は周りを気にしてきょろきょろしていた。
この愛する図書館の最寄りの商店街が昨日深夜テレ東のモヤモヤスポットに選ばれていたことを誰かに言いたくて仕方がなかったのだけれど、朝っぱらからかみさんに言ってみたらリアクションがなくてめげた。さまぁ~ずが引っかかったお店のご主人も「深夜番組だからねぇ~。じいさんばあさんは見ないよ…」って近所の常連に嘆いているのを小耳にはさんだ

「てれびのスキマ」

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煙突の煙のゆくえ


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久方ぶりに宿題を申し受けた。今度あうときまでに一本の映画を見ておくようにというモノだ。今度あうというのは、毎月1回四谷のギャラリーで開かれている写真展で、また来月、ということだ。
息子が生まれた当時、環境測定という仕事をしていた。もう沢山のことを忘れてしまったが確か環境測定には大きく分けて二つの分野があって、「発生源」ともう一つは文字通り「環境」。僕は発生源の部署に所属していた。「環境」とは発生源から放出される何らかの公害物質による大気や河川などの一次的な汚染を測定する。そんなに体は汚れない。「発生源」はその放出される物質そのものを測定する業務である。つまり、清掃工場の煙突に登ったり、アルミの溶解炉の上でサンプリングをする。体が汚れる、結構しんどい仕事だった。先日、その職場の同窓会と呼ぶにふさわしく、やめた人間から現役のヒラから部長まで集まって当時の思い出話に花が咲いた。7歳の息子が生まれて職を離れたので7、8年前のこと。その頃ちょうどニュースステーションのおかげで環境業界ダイオキシンバブルの真っ最中であった。もちろん僕らのもっぱらの仕事はそのダイオキシンのサンプリングで、全国各地をハイエースキャラバンで巡り巡った。ダイオキシンは塩素が含まれているモノが燃えればどこからでも発生する。人間が燃えてもだ。会社のお得意さんに火葬炉メーカーの大手さんがいて多くの火葬を測定サンプリングした。火葬場の職員さんと共同作業で荼毘にふされるご遺体から、バーナー着火とタイミングをあわせ、焼き上がる時間をおもんぱかり採取する。
当時図書館で見つけた本にその名もそのまま「火葬場」という研究書があった。何気なく借りたものの、研究書らしからぬ序章に心が引かれた。その研究者は火葬を考えるにおいてまず、「小早川家の秋」の1シーンに出てくる火葬場の煙突をつきとめるところから筆を始めていた。
内野雅文の追悼の折々で永井さんとはあうことになった。酒を飲み過ぎるととんでもなくだめな輩になってしまうのだが、その博学とうんちくぶりには「ウザい」を超えて悲しみを覚えるくらいで、語り出したらとまらない。最初は場を読めないマシンガンにうんざりしていたのだが、ここ最近写真展会場で月に一度会うようになって、彼の情熱を許せるようになってきた。どうやら永井さんは写真家らしい。なんだか彼の写真を見てみたい欲がモクモクとわいてきている。夜の渋谷や新宿で、スナップを続けている、らしい。最近はいい年をしてモヤモヤスポットを歩いては昼間にも写真を撮るようになった、らしい。その永井さんが小津の映画を見るように強烈に推してきた。どうも僕は避けていたようだ。ゴダールだって見たことがない。ゴダールやらオヅやらを口にしてわかった物言いをする人たちを避けていた。そんな僕に永井さんは年齢とともにわかることが多くある映画だ、といってオヅを大声で勧めるのである。こどものしつけや教育で悩み、夫婦げんかの末以後家族4人のすべての食事を作る羽目になった君だからこそわかることがある、と豪語する。山に登ったこともないのにヤマケイを読んで八ヶ岳についてのうんちくをたれる永井さんのことだが…。
TSUTAYAの半額クーポンで借りた小津安二郎「小早川家の秋」は4:3でトリミングされていてちょっと悲しかった。

「煙のゆくえ」失われていくものたちへのノスタルジー

『火葬場』浅香勝輔, 八木沢壮一(大明堂/1983)

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さまぁ〜ずとスナップ写真2


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写真展を見に谷中に行く。学生の時以来だ。町を少しだけ歩いた。霊園を過ぎるとぞくぞくしたあのときの街の感じが伝わってきた。初めて何も知らずに訪れ感じた雰囲気を残している希な街だ。統一されたレトロ調の木製看板や芸能人の写真を張り巡らせた惣菜屋さんの活気を失わぬよう努力続けている商店街の手本である感じは何処でも変わらない。所詮なじみにはなれずに通り過ぎるなら、おいしくって雑多であればいい。若者やおしゃれな店がその香りをかぎつけて街を変えていくのも、商店街の永続に役立ては文句はない。けれど、例のモヤモヤ感はないのかもしれない。「サマーズ」を「さま~ず」に前の日記で訂正したのだけれど、「さまぁ〜ず」が正式コンビ名のようだ。さまぁ〜ずが歩くにはふさわしくないというだけのこと。そんな町のチョイはずれのガラス工房で中藤毅彦氏の流氷の写真をみた。まず写真が先にあってその写真にあわせて工房のお姉さんがガラスの額を制作したとのこと。写真が小さく寂しかった。粒子の見えない中藤氏の写真は柔らかだった。写真とガラス細工という行為があからさまに違うということを当然のことではあるが強く感じた。
ガレリアQの牟田さんに紹介された南谷洋策さんのDMを現在考えている。現役の医者でありながら写真を発表し、同時にコントラバス奏者として生きている。打ち合わせでは気長に僕ののんびりした写真セレクトにつきあっていただいた。いつも他人の写真を見て気になることはこのカメラを構えた人間がどの立ち位置で、目の前にある世界と対峙しているのかということである。医者であるということとコントラバスを弾く行為も併せて写真を撮るということの一個人の視点になりうるのではないかという南谷さんの心意気に深く感銘している(こんなわかりやすう物言いではないが…)。それでも立ち位置など関係がないと主張する写真には一本の筋を見つけることができるが、立ち位置に心が及んでいない写真には辟易する。
今、机の上にあるポルトガルでのモノクロームのポルトガルである理由を尋ねたらフェルナンド・ペソアという詩人の生きた町をたずねたかったのだそうだ。「微明」というタイトルは老子の言葉から来ている。写真に写り込んだモノとコトと濃淡と南谷さんの照射する言葉から、脳みそのシナプスをつなぐ道を何とか偽装でもいいから作ろうとしている。

老子/微明第三十六
將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
【まさにこれを歙(おさ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。まさにこれを弱くせんと欲すれば、必ず固くこれを強くし、まさにこれを廃(はい)せんと欲すれば、必ず固くこれを興(おこ)し、まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれを与う。これを微明(びめい)と謂う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強に勝つをしる。魚は、淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。】
http://books.google.co.jp/books?id=oHNeeUz6IaIC&pg=PA123&lpg=PA123&dq=%E5%BE%AE%E6%98%8E&source=web&ots=yxLr6ymgUy&sig=qxxUXkgmnUOE6clWtStmdm5g9Bw&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=8&ct=result#PPA123,M1
の訳がわかりやすかった。

「不穏の書、断章」フェルナンド・ペソア(澤田直 訳編・思潮社)の解説によると「われわれを震撼させるこの無限の空間の沈黙を、ソレアス(ペソアの異名)は、宇宙の広大さにではなく、日常のごく些細な場面のいたるところに見出すのだが、それを彼は、円環を閉じることを無意識のうちに拒否することで逃れようとし、そのことによって、まさに、〈無限〉そのものをそこに宙づりにしつつ現出させるのだ。」と書かれている。まさに〈モヤモヤ〉ではあるが、僕は正直ペソアに(そして僕自身に)、もっと外へ出ろよ!!若造、っていってやりたい気分になるくらい、彼(ペソア)が解説のいう「円環」を閉じ忘れている気がしてならなかった。

 …ところが、ついうっかりして、行動を起こしてしまうことがある。私の仕事は意志の結果ではなく、意志の弱さの結果なのだ。私が始めるのは、考える力がないためだし、私が終えるのは中断する勇気がないからだ。つまり、この本は私の怯懦(きょうだ=おくびょう)の結果なのだ。…(P136、解説)

図書館で借りたその本には二つの付箋が残っていた。その一つ

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もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子に座ったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。魂が悲しむことさえしなければ。(P39)

手元にある南谷さんの六切りのバライタを眺めながら難問に顔を引きつらせてみるのだが…、そんなことより写真展会場でのコントラバスの演奏を聴けば解決することなのかもしれない。楽しみ。

中藤氏の小さな写真をみた後、都区内フリー切符を購入していたついでに秋葉原に降りた。金曜夜の秋葉原で小さなデモ行進が行われていた。カメラを向けられることを意識したコスプレの彼らを撮ってはみたが何も見えなかった。が、しかし、カメラをナップから出していた弾みでうっかりしてスナップ写真を撮ってみてしまった。内野雅文が夜に徘徊した街の人種とはちがう秋葉原に光源を探した。ちょっと震えた。どうやら僕はスナップ写真を初めて撮ったようだ。スナップ写真について語る言葉など全然持ちあわせていないことが少しだけわかった。

20081023

ヤマユキ


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山に登る準備をしている。年甲斐もなく誕生日プレゼント(自分へのご褒美)を前借りして登山靴を新調した。派遣先から帰り道である多摩川もすっかり暗がりになってしまったので一昨日から残業を1時間ほどすることにした。靴代の足しになればよい。そのくらいの気持ちであったが、心が揺らいで仕事場の僕のエクセルの予定表に残業代を管理する計算式を組み込んでしまった(たいしたものではないが)。組み込み終わったとたんエクセルがフリーズしたことで、なんとかお金の虫の疼きを押さえ込んだ。けれど自動保存のアドインをずいぶん前に入れておいたことを思い出し、保存されていた計算式のバックアップファイルを探し当ててしまった。些細なことだが心が揺れていた。残業は心も社会もダメにすると憤ったことも仕事を辞めた理由だったような気がする。競争をあおる社会にうんざりしたはずだ。大げさに言えば。
今日、ガレリアQ の牟田さんに「サマーズ」ではなくて「さまーず」であることを注意された。どうでもいいことではあるが心にしみこんだ。靴慣らしのためにいつもならギャラリーのある新宿三丁目には四谷で丸ノ内線に乗り換えるところを永田町で挑戦してみたのだが、乗り換えまで650mの案内にまだ硬い登山靴に覆われたつま先はすっかりめげてしまった。けれど、うれしいDM作成依頼をうけた。
土曜の朝4時にレンタカーで東京を出発して八ヶ岳の硫黄岳を目指す山行き。山行きという言葉の響きは美しい。どうも辞書にはない言葉のようだ。いつ頃から使われているモノなのか知らないが、最近覚えた。
道行き、雲行き、先行き、成り行き、売れ行き、地獄行き
山への厳しい道行きを引っ掛けて作られた造語なのかもしれない。
今回の山行きは学生時代を暗室で一緒にすごした面々に声をかけた(どんよりとした反応であった)。10年強たって、お互いの属している世界について確認しあってみたいという僕の勝手な思いにつきあっていただけるわずかなメンツと久々に連絡を取り合い段取りをしててんやわんやなのだが、心地よく疲れている。学生の時分20穴ファイルにして作った「10年後」という知人を撮影したポートレイト写真の束がこのキーボードの置かれた机の奥にしまってあるはずだ。10年後また写真を撮るつもりでリングファイルにした。今でも携帯に登録されている人間は一人しか思い浮かばない。
硫黄岳には7歳二人と4歳3歳のチビどもも連れて行くことにした。無理はしないが、よい景色の場所で、できれば頂上で集合写真を撮ろうと考えている。

20081011

フリッカーのアドレス変更しました。


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flickrからこのweblogを更新をしている。最初は英語ばかりで取っつきにくかったが、だんだんいいところが見えてきたので運営する米yahooにお金を払うことにした。年間25ドルくらい。
flickrの名前の由来をネットで探してみたが見つからなかった。派遣先の仕事でよく「フリッカ検出」なる技術系の用語が出てくるものだから調べてみるとモニタなどのちらつきを言うのだそうだ。ある構造を持った機器の中で何らかの原因で局部に過度な負荷がかかり出力部にちらつきなどの弊害として現れることで、その機器の不安定さの兆しとして受け止め、原因を解析するときなんかに使っているみたい。口内炎みたいなもの。スペルが【flicker】であったので、妙に納得した。【flickr】は「写真を共有するコミュニティサイト」らしいが命名が妙に写真の核心を突いている感じがしたこともあって、pro登録した。
ネット上の写真をモニタで見ていく作業というのはフィルムのベタから写真をセレクトしていく感覚と近いが、もっとおおざっぱなものだ。今までの写真を見るという感覚とはかなり違う(写真の見方はそれぞれであるが世の中のほとんどが間違っている、というか知らなくて損をしている)。【flickr】サイトで見つけた何かを感じる写真の細部は拡大表示をすることでしか見ることができない。僕がモニタに近づき目玉を接写レンズにして細部を凝視するというわけにはいかない。僕のアップした写真も幾人かに見ていただいているのだけれど、写真の下に表示されるviewのカウントが多いものは、なるほどなぁーといった感じがする。自分の場合もそうだが、写真の濃淡の幅が広くて心をくすぐる色味のものに反応している。写っているものに対しては風景ならば濃淡が描く構図に、人物ならば表情の豊かさと肌の色に反射神経が反応しているに過ぎない。僕はぱっと飛び込んでくる写真の強さを信じない。写真は写ったモノの表層達が編み上げるプログラムで、小説を1m離して眺めたところで何も浮かび上がってこないのと同じく、そこで見た強さは小説のカバーデザインでしかない。その編み上げられたモノ達の関連は拡大表示によって切り離され写真の存在理由(その写真を選んだという)は宙に浮いていく。それでも僕は【flickr】を選んだわけだが…。

http://www.flickr.com/photos/hiroomis/

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息子の捻挫とシューベルト


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2年生の息子の学芸会生徒鑑賞日の今日、父親ぶって「今日はどうだった?」と聞いてみたのだが、返事は「かーちゃんに聞いて」であった。それでも問いただし、ちゃんとできたかの問いに「だいたいね」との回答を得た。先週の木曜日、彼は前捻挫をした。携帯に見知らぬ固定電話の着信が残っていたのは学校からの連絡であった。1.5倍はふくらんだ足の息子に問いただしたが捻挫のわけは言わなかった。土曜日にケンケンする息子に付き添って近くの児童館のお祭りへ行った。多くの大人に包帯の足について心配される彼を見て、なかなか顔が広いことを知る。理由は言わなかった。そんな彼を近くで見ていた女の子が「けんかしたんだよ」と我慢できずにつぶやいた。そこからはじめてわけを語り出したのだが、相手が悪いと言うことを主張するのにムキになっている彼を感慨深く眺めていた。
シューベルトの「四つの即興曲」の2番(D935 No.2)。シューベルトがどんなおじさんであるか知らないけれど、佐藤真の映画「OUT OF PLACE」の最後にバレンボイムがピアノで弾いていた曲だ。上映された当時、見に行くことができなかった。佐藤が外国に目を向けていることに疑問を感じていたし、「阿賀に生きる」のような映像をフィルムに収めることができない歯がゆさを映画に見てしまいそうで怖かった、というのがおそらく当時の理由である。
アテネフランセでの回顧上映で「阿賀に生きる」を10年ぶりに見た。前はかみさんと見に行ったらしいのだが、記憶にない。けれど、ずっと引きずっている。10年前僕はこの映画に何を見ていたのか思い出せないほど新鮮で美しい映像だった。そして、やっと「OUT OF PLACE」を見た。美しい映像はなかった。美しい映像を希求する佐藤監督のもがきを見た。美しい映像とは風景である必要もないし、条件を満たした光でもない。写ってしまった映像である。佐藤さんを引きずって10年くらい僕はもう生きてきた。ドキュメンタリーとフィクションの境界の不在を常に主張していた方である。境界があるとするならばドキュメンタリーは写ってしまった美しい映像のためにフィルムをつなぎ合わせることで、フィクションとは美しいセリフのために撮影しフィルムをつなぎ合わせることではないか…と、10年前の昔話をしながら饒舌になってかみさんに言ってみた。
「OUT OF PLACE」はエドワード・サイードの自伝のタイトルからとったもので、邦題が「遠い場所の記憶」。よい響きの言葉だ。直訳すると〈場違い〉。「何で私が遠く離れた国のサイードを…」という問いかけであり、結論でもあるナレーションで始まる「OUT OF PLACE」は今の僕にとって、前日の不摂生もあって多少眠たい。上映後のトークショーで羽仁進氏がこの映画について「論理的思考を映像表現のなかで試みた作」と評し、会ったことのないまま亡くなった佐藤氏に対して「多くの人たちのことを考えている人」だといっていたことに納得した。10年前「阿賀に…」を見たときのように僕には「OUT OF PLACE」はわからないことが多すぎるのだろう。けれども、映画最後のシューベルトのピアノが頭にこびりついている。息子の捻挫で膨張した足の映像とこのピアノの音はこれから10年リンクしていく。

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台風写真


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台風が近づいている。
僕が多摩川のそばに住みだして以来数年おきに台風によってこの土手は決壊まではしないが大変なことになってしまう。ブランコは流され野球場はかろうじてベンチが残り、昨日までの草の生い茂った緑を上流からのゴミに埋め尽くされてしまう。去年僕が出くわしたのは、前職を辞める前後のあてもなく、今日と同じように台風の上陸に気がそわそわして土砂降りの中カメラを持って土手まで慌てて飛び出していって目にした風景。朝一番のぎりぎり露出が足りるというくらいの時間に目の前の流れは荒れに荒れていた。あっという間に雨は落ち着きだし、そしてはっきりとした視界に上流から人が手を振りながら見たこともない早さで流れてきた。小屋の屋根にたって真っ茶色になって手を振り続けるその人にシャッターを切っていた。55mmのレンズでは遙か彼方のその一枚は写真としてはどうしようもないモノだった。
トーテンポールフォトギャラリーで開催されている諸星由美恵写真展「足裏にのこる記憶」にいく。DMに一目惚れした。心なしかいつものギャラリーより客が多かったような気もする。同じように1枚のはがきに惚れ込んだ人たちなのだろうか。
机を挟んで向こうかわに見える部屋の様子。ピントの合っていないウーロン茶のペットボトルや酒瓶が、邪魔をするのでなく、写真家に受け入れられている感触が心地よい。コトを発見した際に気負いなく、ふっと対象に目を投げかけている。本当はそうであるはずはないが、発見の喜びとそれをえぐり取ろうとする野心との戦いを、どろどろと見せることなく美しい光のカラープリントで仕上げている。すごい。大変そう。
映画作家の佐藤真氏が亡くなって1年が経った。僕が会社を辞め、台風が土手をめちゃくちゃにしたのも1年前。やっとアテネフランセとユーロスペースで「佐藤真監督回顧」が始まった。「阿賀に生きる」を学生の時初めて目にしてずいぶん考えた。訃報を耳にして以来、佐藤さんが最後に撮った映画のチラシにあるサイードという人の顔らしき表情がずっと気になっていて多摩川とは遠く離れた国パレスチナを故郷とする知識人のインタビュー集を読んでみた。なるほど、この人を佐藤さんは映画の中でおってみたわけだ。来週、まだみていない「エドワード・サイード OUT OF PLACE」をみてみることにした。サイードの本の中に出てきたミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』(西永良成訳)という小説の第六部「天使たち」。音楽家であった父親がベートーベンが最後に辿り着いた変奏曲という陳腐なスタイルについて理解したことを、老衰して言葉を失っていくなかでなんとか息子をピアノのある自室に呼びつけ譜面を指し示し、伝えようとする。自傷する語り部のくだり。

「…
 人間は太陽や星々のある宇宙を抱けないことを知っている。だがそれよりも、もう一つの無限、ほんの近くにあって手の届きそうなあの無限を、どうしても取り逃さざるをえないことのほうをずっと耐えがたいと思う。タミナは自分の愛の無限を取り逃し、私は父を取り逃がし、そして各人は自分のなすべきことを取り逃がす。それというのも、人々は完璧を追求しつつ事物の内部に向かうのだが、果てまでいくことがけっしてできないからなのだ。
 外界の無限が逃れ去っても、私たちはそれを自然な状態だとして受け入れる。しかし、もう一つの無限を取り逃がしたとなると、死ぬまで自分を責めることになるのだ。私たちはこれまで星の無限のことを考えていたが、私の父が中に持っていたような無限のほうは少しも気にかけなかった。
 …(略)…ベートーヴェンもまた(ちょうどタミナが知り、私が知っているように)、私たちが愛した存在、あの十六小節とその無限の可能性の内的世界を取り逃してしまうほど耐えがたいものは何もない、ということをとてもよく知っていたのである。」

引用しておきながら理解に苦しむけれど、足裏にのこった記憶が「変奏曲」であって、佐藤真が向かったのが「シェーンベルク」であった。と言いきってみたい感じになったということだけである。所用の帰り、同じ電車で二人きりになってしまった。しゃべる世間話もなく、初対面で緊張して何も聞けなかったことを思い出す。先細りのケミカルウォッシュにちょいとシャツが出ていたおっちゃんはもういません。

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スナップの若造


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スナップ写真を撮り続けている二人の写真家、三浦和人と関口正夫「スナップショットの時間」展にいく。三浦氏の60年代だと思われる静かな写真から展示は始まった。明確な言葉を持たないまま数枚の写真が1枚の印画紙に焼き込められ一つの額縁の中に収まっている。20代の僕であればそのことに引っかかることなく写真のグラデーションと写り込むもののシュールな関係と対比を体で関知し納得することもできたはずだ。それがもうできないと気づかされると同時にこの写真が20代の三浦氏によって選ばれたのではないという想像が頭を巡る。力をなくしていくことに不安なのは僕だけなのではなくそれを選ぼうとあえいでいるその写真家でもある。そして、新宿駅構内から出口に広がる白い光の中にほとんどシルエットとしてしか認識できない子供を抱きかかえた婦人。鳩が群れて羽ばたき高架のアスファルトの夏の蒸気を通過していく。学生たちの騒ぎの遙か後ろで飄々と人物たちの配置の妙をほくそ笑む一人のカメラマンがいる。写真展入口で引っかかったワインの酔いが写真を見る精度を狂わせたのかもしれない。写真は僕の状況にいやがおうにも反応してしまうし、今の僕にはここにある写真が美しく見えて仕方がない。写真家がこの壁に併置するわずかな一点にそれほどの論理も言葉もいらないのだ。しかしながら、スナップというものは僕を少ない脳みそを抽象の隅っこに追いやってしまう悪い薬だ。あんなに具体的な何かに接しているのに僕の頭は言葉でないものに向かいたい願望でふくれあがる。始末が悪い。たまたま出くわしたその光と事物の配列とコトとモノの意味たちを白と黒のグラデーションの集合として矩形で切り取っていくことに、生きる価値など見いだせやしない。明日の目的でさえも不安だ。本当に時間が過ぎるのが早かったし、レセプションのケーキはおいしかった。
スナップ=瞬間。っていくと今ではどうしようもなく陳腐に感じられるようになってしまったのだけれどもシャッターを切る理由はやっぱり瞬間に潜んでいるのではないか。「時間」のおおよその一点をつまみあげ変換する作業である。野口里佳の空を飛べない鳥を長時間露光のピンホールカメラで捉えた作品を思い浮かべた。図書館のアサヒカメラでインタビューを読んだからだろう。あれはカメラの仕組みとしてあわせ持つ全く別の変換作業だ。ずいぶん前、写真を始めた当初の野口の写真には<瞬間>という仕組みが方法としてとりいれられていた。そして、飛べない鳥を用いてそれを排除してみるといった変換方法にまで辿り着く過程を写真表現として短期間に表してきた。このおじさん二人は不器用にもほどがあるが、40年を費やし散布図のように点で散乱した印画紙上の時間のシミを掬い上げ続けてきたのだ。とんでもない徒労であるし、欲望と戦略だ。関口さんには聞いておきたいことがたくさんありそうで、終わりしな会場端から見つめていた。感づかれてにらみ返されたギョロ目に激しく動揺した。「若造、おまえにわかるかぃ?」

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サマーズとスナップ写真


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エクセルにはまっている。仕事でそんなに必要もないのに表ばかり作っている。たとえば今週は表の中にある言葉を検索し、文字の色を変えることに一日と半分を費やした。些細なことだ。それがなかなかできない。エクセル風に言うならばブック中のセル内にある特定の文字列を一括して書式を変える、なんて言葉で言わなければならない。セルとは表の、あるひとマスのことをさす。エクセルに標準でついている検索機能ではセルごと書式が変ってしまい、セル内にあるその言葉だけの色を変えることができない。それをVBAと呼ばれるプログラムで考える。僕にはできない。ネットの中には色々親切な人がいて、いろんな便利ツールを作ってくれているのだが、こんな道具を探すことだけに一日かかってしまうのだ。仕組みは表の隅からその言葉を探していき、見つかったところで、その言葉があるセルの中で何文字目にあるのか答えさせ、そのセルの何文字目から何文字目までの文字の色を赤で塗りなさいと命令し、そして対象となる文字がなくなるまでさっきの場所の次の文字から検索を繰り返しなさい、といったものだ。プログラムにはそう書いてあるらしい。もし探している言葉がなかったら…とか、些細なことを想定しておかないとパソコンは止まってしまうらしく、その暗号文の分量たるやたいしたものだ。僕はその呪文をチョイとコピペして自分のエクセルのボタンに貼りこんでやるに過ぎない。それでも目的(なんて明確な!!)を達成して時間が過ぎるのをすっかり忘れている。
サマーズが気になっている。夜に頭だけ疲れて寝付けない体を横にしてだらだらテレビを見ていると、サマーズは現れる。いつも一緒にいるだろうし、何の発見もないであろう相方と30分もずっとテレビの中で話している。些細なことばかりだ。その些細な発見を堂々と吹聴する相方の様をもう一人は喜んでいる。二人の良い関係に、饒舌さに、油ののりを感じる。さっきも都立大学駅周辺をつまらなそうにぶらぶら歩いている二人がテレビに映っていた。時代においてかれたモヤモヤした街をおちょくっりながら二人とテレビ東京のアド街のきれいなおねえさんが散歩しながら時間をつぶすといった番組。毎週見てしまっている。カメラをぶら下げて街をスナップする感覚って…、いつもながらサマーズに考えさせられる。二人にも些細な悪意と愛情がある。最近のダウンタウンのいただけなさはよく耳にするが、靴下に刺繍されたお馬に乗った騎手が動き出し、些細な妄想が終着点を探しながら膨らんでいくかつての二人の会話はもう見られないことを思いつつ、サマーズの二人を見ている。
「三浦和人&関口正夫 スナップショットの時間」展が三鷹市美術ギャラリーでもうすぐ始まる。三浦さんは僕が始めて受けた写真の授業の先生で、そこから写真との付き合いがはじまり、抜け出せないで今までいる。お二人は僕が生まれる前からずっとスナップ写真を撮り続けている。どういうことなのだろう。決して明確ではない、時代に煽られてぶれてしまいそうな目線を持ち続けうる、というのは覚悟なのだろうか。至福なのだろうか。送っていただいたチラシの裏に誰が書いたのか、当たり前でつい忘れてしまいそうな真実がとてもとても丁寧に書かれていた。
「(前略)何が写っているのかはもちろん大切です。しかし、何が写っているのかと何を撮っているのかを簡単に等号で結びつけることはできません。何が写っているのかを通して、その向こう側に何を撮っているのかを、私たちは私たちの経験に即して見ることがきっとできます。すでに撮られた写真は、たとえ自身の撮影したものであっても他者の姿をしています。何十分の一秒、何百分の一秒という時間が作者によってどのように生きられたのか、それを私たち自身の時間として今一度捉え返し、生き直すと言い換えてもよいでしょう。それは決して追体験などではありません。すでに見るものひとりひとりの創造の内にあることです。根源的な出会いの場を求めての想像の時間なのです。」

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足らない写真


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生活がまた始まり職場のパソコンとの睨み合いが続く。実家からタバコをカートンでいただいてきたにもかかわらず、ポケットに入れ忘れる。駅の売店でライターと一緒にキャスターマイルドを買ったのだが雑誌の山に置き忘れる。翌日朝少し早めに家を出て恐る恐るおばちゃんに「昨日…」と言いかけたとたん棚から紙に包んだタバコとライターをニコニコで渡される。自前の弁当はいつものように箸が入っておらず食堂で悪びれながらカウンターのおばちゃんと目をあわさないように箸をゲット。食事に誘われない限り昼休みに本を読むことにしているのだが、思ったより漢字の多い文章に集中力を切らしているとさっきの弁当が股にぎっしりこびりついている。100粒は超えていた。
先週末に富士山に登ったこと書き留めておかなくてはならない。けれど言葉がなかなか出てこない。7歳のチビ助と二人、メタボと意気地なしのコンビにはえらくこたえた。2年越しのリベンジ。5歳の彼は8合目の宿で晩飯でたいらげたカレーを僕の胸のなかですべてリバースし、不安定な呼吸のまま夜明けを迎えた。今回、それでも下りなければいけない怖さを強くインプットしている体は互いに臆病で、弱った子供にさへツレない宿への怒りや久しぶりにこんなに長い時間手を繋いだ感覚やらで、整理がついていない。頂上まで行ったことは確か。晩飯のカレーを残して僕にくれた。
山頂で小岩井大輔写真展「Mt.FUJI3776」を見た。8年かけて撮りためた富士の写真の展示の前に山小屋で働く本人がいて、チビをだしに使い話しかけるタイミングを待った。多く語らない本人とは違う饒舌な写真だった。
山に行くときはブローニーのネガカラーに6月の編笠山から決めていた。それでもやっぱり、ここでも何にカメラを向けたらいいか解らないままチビの貌ばかりを見てシャッターを押していた。
ギャラリー・ガレリアQの牟田義人さんに写真展のDMをハイペースで頼まれ、このひと月は人の写真に囲まれて息をしている。Qのメンバーの星玄人氏のDMをはじめて作ることになった。前回の展示でも当初DMを依頼されていた。だけどどこか怖かった。その時引き受けたものの僕の引け目を野生で感じ取った星さんから時間都合での断りの電話がやんわり入って安堵した。強い被写体に向っていく写真家だ。写真集でしか写真を知らなかったが、新宿に行くたびに出会ってはいた。話していても宇宙から来た写真家のように感じていた。彼の写真の中には弱者(強者?)として社会から振り分けられたアウトサイダーが多く登場する。魅力を感じてしまった被写体である街の夜に飛び込んでいく。今回、DMに載せる写真の候補をスキャン・レタッチして感じるのは、僕の妄想の中の彼の写真よりはるかに被写体との距離が遠いということだ。ラフプリントのキャビネサイズで人物が小さいということだけでは無論ない。彼との打ち合わせの中でも感じた写真家の変化していくさまを、DMでは伝えられればいいと考える。タイトルの変更を提案し、僕が強くて不安定なこの写真達に感じた言葉をDMにのっけて校正を送った。足らない写真を補いに、すでに現場に向ってしまった星氏からの回答が明日、携帯に来ることになっている。少なからずの緊張がある。

20080809

『これでいいのだ』と。


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ぼくんとこの図書館は携帯から蔵書検索と予約ができる。区内の図書館の蔵書なら普通に翌日最寄の図書館に本が届いたことを知らせるメールが携帯に送られてくる。今年の4月から始まったこのサービス。気になる本があればその場で予約を入れる。返却催促の連絡も携帯にくるようになった。めったにかかってこない家電が鳴ると、図書館からの催促電話で、時には不機嫌に対応しては申し訳ない思いをさせていた。そんなことももうない。
返却期限の切れた本を延長しに夕涼みがてら図書館に行った。いつものようにもう数ヶ月延長を続けている本になんと予約が入っている。「延長できません」「そこを何とか…」「一旦返却してください。」「それじゃぁ、返却しません。ここにこなかったことに…」にやつきながら「一旦返却してください。それじゃぁここで読んでいってください。」閉館までの短い時間ここで読んでいく事にした。
夜、牟田さんの次の写真展のDMを作る。24時までの入稿を目指したいところだったが、先日なくなった赤塚不二夫の葬儀でタモリが読んだ弔辞が気になってどうしようもなく、ネットに向った。サンケイで全文掲載を見つけ読んでからずっと動揺がつづいている。内野の追悼文集の編集作業でおばさんから寄せられた追悼文をはじめて目にしたとき以来の動揺だった。

「(前略)あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。」

今年のフジの27時間テレビはたいそう面白かったようだ。テレビっ子の僕は中学生のころ血眼で27時間、テレビに食らいついていたことを思い出すが、最近は見ていない。今年もいつ放送だったのかさえ気づかずにいたくらいなのだが、僕の周りの数少ない人間の90%(3人)から面白かったという意見を耳にした。僕らはたけし・さんま・タモリが全盛の輝いていたテレビを見て多くの青春を奪われた。彼らは僕らにとっては親戚のおじさんのような存在で、彼らの言葉が常に僕らの言葉であった。そのおじたちが弔辞を読み上げるくらいの年月がったった、のだ。
何も書かれていない紙をめくりながらサングラスごしに発せられた言葉がふと魂を宿した。大袈裟だが。自分の時間の中にいた人間がいなくなるということに対して言葉をつむいでおかなくてはならないという覚悟があり、それを感じる。不安定な言葉はこの危機感によって、時空を深く刻み込み傷つけるための加速度を持つ。えらく遠まわしだが僕がエンエン泣いたということである。たまらない。DMはなかなかできない。写真の問題かもしれない。

今朝、かみさんにタモリのことを聞いてみたが、反応がない。実は昨日の晩御飯で仕事のこと、写真のことを話そうとしてしくじった。すぐにベクトルが生活費の問題に向いてしまった。そこから冷戦中であったことをすっかり忘れていた。派遣先で隣の同世代のSさんに振ってみたがイマイチのリアクション。何人目かで今日のいいともが気になって録画している人に出会った。Mステのタモさんはちょっとだけかっこよく見えた。サザンの桑田が意識しているように見えた。テレビの見すぎだ。娘に電源を切られた。
今日18切符で実家に帰る。フィルムをあわてて買ってきた。もうそろそろタモリ倶楽部の時間だ。

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話すことの余韻


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7歳の息子と久しぶりに話し込んだ。祭りから帰ってきて疲れ果てたチビに週末の気楽さにまかせ長い時間つき合わせてしまった。
今日の職場の納涼祭でいつも話したことがない人たちと飲めないビールの勢いで話し込んだ余韻もあったのだろう。いつも顔だけは見ていたが正社員の服を着たまだウブな髭剃りあとがその青年の印象だった。まだ18歳で高校を出て遠い故郷から単身東京に身をおき日々黙々とモニターに向っている。すべて今日知ったことだ。現在19歳。話し始めると訛りをほんのりと残したその口調は自分を制御しきれない抑揚の崩れかけた、だけども懐かしいような響きだった。
僕より遅く祭りから子供をつれて帰宅したかみさんに若い彼の話をして息子が話しに入ってきた。「高校卒業して働けるの?」僕はどう答えたか覚えていない。その青年の弟は進学するそうだ。息子の中でもそんな意識が刷り込まれているのもこのごろでは当然なのかもしれない。夜更かしのお風呂で眠くてアドレナリンたっぷりの甘えた息子が「大学は私立と公立どっちが高いの?」と聞いてきた。そこからオヤジの長い話が始まってしまった。学校の費用は公立では税金で大半がまかなわれていること。何で学校に行くことが義務とされているのか。自然に息子からその言葉が出るように仕向けた。答えは用意していなかったが、しばらく考えて「人を殺さないようにするためだ。」と答えてみた。あっているのだろうか?いつものどっちつかずの父親の態度と違ってきっぱりと答えてみたせいか息子は合いの手を入れながら随分長い時間話に付き合ってくれた。妹のお菓子を取り上げて兄弟喧嘩が勃発すること、日本が朝鮮を侵略し植民地としていたこと、この同じ時間に爆撃を受けて子どもらが逃げさまよっているような土地がまだあること、アインシュタインのこと、じいさんが生まれる前、アメリカが原爆を落としたこと、原子爆弾のエネルギーが去年見た古田の引退間近の神宮ヤクルト阪神戦を観戦する人々の熱狂を優に包み込んでしまうことを、とりとめもなく。前の仕事で毎年行っていた長崎の原爆資料館にあるファットマンが風呂場に入るほどの大きさであったことを言い、今度連れて行くことを約束した。原爆を落としたアメリカと今では仲間ということになっており、そのアメリカが現在も自国外で戦時体制を維持し、僕たちはその仲間である日本に暮らしているということ。さすがに長くなりすぎて「ごめんね。」と謝った。日焼けして焼け野原の僕の背中を剥いてもらおうとのぼせた彼に頼んだが「気持ちわりぃ」と拒否されて、そそくさと洗って出たら「水曜どうでしょう」が始まっていた。なぜか、写真は残したいと思うから撮るのだなぁと、福田内閣改造の大臣たちのしょぼい顔を映像だけ見ながら思った。

20080723

まずは忘れないためにグーグルカレンダーに


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グーグルのカレンダーに最近は命日を入れることが多くなった。そんなに周りがばたばたと倒れるような年頃ではないが、不精な僕には故人を忘れない方法としてグーグルが助かっている。死んでしまう前にたくさんの事を聞けなかったことをあれだけ悔やんでも、次の年には亡くなった季節さえ曖昧になっていく。幾度と記憶をリフレインし、自分の生に織り込んでいくのが人の性であるのだろうけど、僕は忘れてしまう。やっぱり不精に尽きるが、そういう仕組みを具え持っているとポジティヴに思ってみてもいい。グーグルには「毎年」という設定があるから、来年の3日前に携帯メールでお知らせしてくれる。具え持った能力に少し抵抗してみる。
仕事帰りの図書館でアサヒカメラを見る。写真家、柳沢信氏の追悼文を眼にして、氏がすでにいなくなってしまっていたことを忘れていたことに気づいた。寄稿された柳本尚規氏はゼミの先生で、多くの写真に関わることを学んだし、当時は反発したりもした。柳本さんに見せてもらった写真集の一つに柳沢信「写真」があった。それからずっと写真のことを思うたびに頭から離れない。困った写真だ。はっきりと柳沢氏の写真を言葉にしたことなどないので、ついて離れないとしか言いようがない。そして追悼を寄せた柳本さんの言葉は、僕にとってひりひりと痛いものがある。いつもながら。
亡くなったばかりの評論家草森紳一氏の言葉を引用して柳沢氏の写真を掬い上げる。「「……一見何ということもない写真であるけれど、(略)しみじみと迫るものがある。この『しみじみ』は曲者である。この曲者こそ、『写る』ということである。/北風がやってきて暗くなった漁村。この暗さに、柳沢信はなんら象徴を求めはしないだろう。(略)彼の目をひいたのは、北風の暗い空の下で、岸に打ち寄せる波であった。その波に彼の心は(略)敬虔に構えた。ここにあるのは波らしい波ではなく、波の環境が誠実に写されているのだ。(略)その波のそばにたつ家並みは、そのような岸辺を波が洗っている時、暗雲の下でどのように静かにたたずんでいるかを、柳沢は誠実に写しとっているのだ。ここには『写る』がある。自然の時間、人間の時間を奪う、しみじみとした冒険がある」(「カメラ毎日」1966年2月号)」
「…つまり、写真が被写体とカメラと撮り手の三つからなるならば、被写体のすでに持っている意味を言葉で説明できるものは視覚的には無視しておけばいい、また撮り手の思想や個性という得体の知れない不確実なものは放っておけばいい、…」といって柳沢さんの「写真の機能を『観察』という機能だけに絞ってカメラを使ったほうが、被写体が語りかけてくる言葉を印画紙の上でより自由に語らせることができるのではないか」という主張を説明している。これは柳沢さんだからできるのであって「並みの写真家は言葉の手助けを得てやっと写真を表し、その言葉の部分を読者になぞってもらって「作品」として流通させているのが、今なお変らぬ実態である。」とまで…。
「柳沢さんの写真を好きだという人たちは、自分こそが写真の何たるかを理解できているものの一人だと自負を持った。」
抜き出すと暴言のようだが、それくらい強い愛情であると感じた。
そこまで立ち行かない僕はあらためて本棚の写真集に目をやろうとしている。まずは忘れないためにグーグルに書き込んだ。

20080715

記憶の自家用車


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2004年2月に中古で手に入れたデミオを10万キロ乗り潰し廃車にすることにした。廃車業者というものを調べてみるといろいろあって、一斉見積もりサイトを使って合見積を取ってみて少々驚いた。城山解体という会社が業者からのみ1台40000円以上で買取を行っていることをたまたま新聞広告で見かけた。よくラジオのCMで名前を聞く社名だ。見積もりを取ったのはそこに至る中間業者ということになるのだが、最大手ガリバーは買取なんてとんでもないということだった。車持参ならただで引き取ってくれるところ、買取価格は数万円だが数々の手数料を引いたらいくらにもならないところ、様々。買い取り可能というメールでの返事に怪しみながらも一社に電話をしてみると心地よい対応。傷だらけのデミオであることを念を押して15000円の確約、ついでにこの価格で千葉県野田市所在の会社が車引取りにも着てくれるという。野田市と聞いて、ドライブがてら野田清水公園のアスレチックにでも行って不安は残るが車を持参することにした。怪しい会社ならここで断ってくるだろうと踏んだのだが、「儲けがないんですけど」と前置きしつつも5000円アップを提示してくれる。夜遅くに電話してもいつでも電話に快く対応してくれる点で、社員が血眼で働かされているブラック会社を想像しつつの、デミオ最期のドライブとあいなった。
出発前に車の前で家族で記念写真を撮った。カラーネガフィルムをつめたFM2を三脚で立てた。どれも倉庫代わりの車の中に眠っていた機材たちである。ガソリンの高騰からか日曜日だというのに渋滞にひっかかりもせず目的のアスレチックに程なくつき、チビが難なくこなしていく姿と赤くほてった手の皮に自分の体重をおもい知った。散々筋肉を痛めつけたあと約束の時間より早く廃車屋さんへ向かう。
なんとなく見慣れた感じの旧街道沿いにはアンバーめの光の中、祭りのちょうちんがまばらに風もなく下がっている。その店は想像に難く、普通の建売一軒家に派手な看板をつけただけのような慎ましやかなたたずまいであったが、お店の入口らしからぬドアを開けると中には最新のコンピューターが並んでいてしっかりとクーラーの利いた事務所であった。一通りの書面を交わし、車の確認をするわけでもなく20000円の入った袋を手渡された。これでさよならだ。息子はほってた体でうつむいて何故だか目頭が熱くなるのをこらえていたようだ。デミオと共有したいくつかの思い出がよみがえってくるような年齢に彼もなったのだ。確かにいろんなことがあった。
このあいだ、息子とデミオの中で思い出話をしていた。「あれは白い車のときだったよね」という息子の言葉に、車の記憶と共に幼いころの多くの記憶が脳裏にインプットされていることにおもいやった。
白い車とは前職で営業車両として会社より与えられていた中古ポンコツのミラだ。社用車を私用していたわけだが、息子の記憶にはミラが存在がまにあっている。2、3才の頃の記憶だ。
ファミリーアルバムに写り込んだ自家用車は不意にその一枚に時代を繋ぎあわす鍵をあたえる。赤いスズキのアルトと共にまだ隣家とのあいだにコンクリ壁のなかった実家の姿が浮かぶ。それは記録から写真へ、写真から記憶へ変換された赤い車だ。
廃車屋さんで手続きをしてくれたふくよかなお姉さんが野田清水の駅まで僕らを送ってくれた。その車も色違いのデミオだった。助手席から遠くに観覧車がみえる。ジャスコに昔からある観覧車だそうで、古いくせに最近は500円に値上がりまでして誰も乗らないそうだ。今日がこの辺りのお祭りということらしいが、地元でないので良くは知らないとのこと。駅に曲がる道を間違えて随分さきでUターンをして戻ってきて駅に着いた。「また、よろしくお願いします。」だって。駅舎らしい建物すらない東武線の駅で階段で見えなくなるまで見送ってくれた。

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転職希望理由


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再就職活動用に目新しいサイトを見つけたので登録してみることにした。半年ほど前書いた転職希望理由というのも何だかそこがわれていて歯がゆいのであらためて書いてみた。本音では仕事の優先順位を生活の中からさげてしまいたいのだけど、実際必要とされていないと肌身でわかると、心に悪い思考が頭に蔓延してしまって、困ったものだ。どうせ嘘で包み尽くして採用をはねられてきたのだから、なるべく嘘をつかない方法で今回は試してみる。甘ったるいことは承知だけれど物は試し。以下は転職希望理由080708バージョン

「当たり前のことですが、生きていく中で何かを成し遂げることは難しいものだとあらためて感じるようになってきています。残された時間を、何でもできるのではないかという若気の至りだけを引きずっていては、何も理解することなく人生が過ぎ去ってしまうのではないかと遅ればせながら焦りも感じつつあります。
小学5年生の夏に自宅にやってきた東芝のルポで当時はやっていたテレビゲームの攻略本を作りクラスで評判となってからは、我がクラスの学級新聞だけは活字でした。FMラジオ雑誌が全盛の中学1年生のころからカセットテープのレーベルを自分で作るようになり、レタリングに興味を覚えました。新聞屋の実家に転がるグラフ雑誌を食い入るように目をやり、マッキントッシュというコンピューターがあれば僕らを魅了してやまない小説や雑誌を自分で文字組みレイアウトできるということを高校生になって知りました。美大を目指したのは何となく所属していた理数系のクラスがなじめないと感じたからでした。デザイン学科に入ったもののそこで出会ったのは写真でした。写真には多くのことを教わりました。そして現在でも共に生きています。学生時分はじめて友と作った写真の同人誌は写植でした。学校にあった印刷部屋でなれない写植の硝子盤に目を凝らしていました。今とは違ってまだ情報の少ない中で見つけ出した安い印刷屋さんもまだコンピューターには対応していませんでしたし、マッキントッシュにはやはり手が届きませんでした。それでも時代は加速していき、卒業前に作った最後の本ではDTPとまではいかないにしても写植からは離れていました。
社会に出て紆余曲折ありましたが、再就職という現実に直面してあわててではありますが振り返ってみますと、インクのにおいと活字と写真で埋め尽くされた「本を作る」仕事に自分は就くべく今まで生きてきたのだと感じました。」

最後は無理やり理由にしただけで、ひねりがない。追々直していける仕組みで、更新しているほうが企業の閲覧率も高いようなので、特にそのまま登録してしまった。明日になったらまた書き直しているのだろう。
霧雨の中派遣先からチャリンコでの帰り道。いつものように多摩川土手を下っているとお昼休みに見たヒョロっとしたチェックの服がはるか前を傘もささずに歩いているのを見つけた。この雲行きだとこれから土砂降りだというのにベルの音にも気づかず無心に歩いている。後で聞いたら、やんちゃなやつらに絡まれると思い、後ろを振り向かなかったようだ。S君の真横に自転車をつけて、お昼休み以来の再開に、ニヤ付く。そういえばS君の顔は最初ぎこちなかった。昼休みのベルがなり、弁当が寂しいと思いつつ自席の暗い蛍光灯の下でうだうだしていると、大抵ニコッと笑って遠くから古めかしい親指を使ったジェスチャーで食堂の100円お惣菜コーナーへ僕を誘ってくれる。何を話すでもないが、彼から若かりし悩みを打ち明けられたことはなく、どちらかというと僕のほうがそんな態度かもしれない。若い、すがすがしさに陰りがない。そのS君が 一人霧雨にぬれていた。映画のカメラマンを仕事ではなく続けていこうとしている彼は、よく歩いて帰っていることを僕につげ、屈託なく先日撮った反対岸のアジサイのデジカメデータを見せてくれる。次の橋を渡らなければ随分先まで川を渡れないから「ここで渡る」といってすかさず駆け戻ってきて「やっぱ次の橋まで見たことのない景色を見に行ってみます。」といって時期に、「先が見えないんで戻ります。」と軽やかに言って引き返していった。すぐ土手をあがれば家だったが、次の橋までそれなら僕がいってみようと思ったが、やっぱ土砂降りの雲を目の前に引き返した。家に着くと激しく雨音が窓をたたいた。S君はかさも役立たず、ずぶ濡れだろう。

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写真の果て


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写真の果ては粒子であると思っていた。プリントは少なくとも画面の中心に粒子がカチッと現われて、白から黒にいたるまでの濃淡を存分に使っていれば美しいし、それでモノとしての深みが出るような気がしていた。モノクロームのプリントのことである。学生のころフィルムセンターでの企画展ではじめて中平卓馬の60年代のプリントを見て慄いた。当時の印刷物たちからは心のブレと光の荒々しさは感じたが、そこで見た現物にあった美しさは知る由もなかった。
DxO opticsという現像ソフトのプラグインとして発売されているFilmpackはデジカメデータをフィルムのニュアンスで補正してくれる。20種類くらいの擬似フィルム補正データがあって、色調、コントラストだけでなく粒状感も各フィルムとフィルムサイズの特徴を再現する。T-maxやNeopanもある。インクジェットでプリントしてみると粒子の美しさを感じることができる。精緻に比べたわけではないが、もしかすると、「果て」を越えてしまっているのかもしれない。もしかするとであるが。
日曜日、母方の祖父の三回忌で静岡の実家に帰った。(今月半ばで生涯を終えるオンボロマツダデミオの最期の長旅であった。)ここ数年、親族の葬儀が続き、実家での写真は葬式ばかり。じいさんの本葬以来撮影を続けている。最中、あまりにパシャパシャ撮っていたので、かみさんからは「業者じゃあるまいし」とたしなめられたが、ついには喪主(母の兄=オジ)から経費が出た。即日、子供のときから使っていた今はなき「光写真館」へ現像に出し、アルバムにつめ親族皆でじいさんの亡骸をながめ感慨にふけった。不思議な経験をした。
通夜の晩、飲み助たちが帰った深夜の納棺の済んでいないじいさんの横にオジがちょこんと背を丸めて胡座をかいて座っている。どんよりとした瞼でその黄色くなった顔をぼんやり眺めている。遠くから体の悪い小さくなったばあさんが杖に手をかけ台所のいすに腰掛け二人(じいさんとオジ)を見ている。僕もじいさんの顔を拝みにきたのだが、時計の音が聞こえるくらい静かな蛍光灯の下でしばらく腰をおろして黙っていた。怖気づきながらもオジの正面でカメラを構えた。オジとばあさんは動かない。もちろんじいさんも。シャッター音の後フィルムを巻き込むワインダー音が響いてしばらくしてオジが小さく「これでええか。」といった。鯨幕が扇風機でゆれる。
今回、三回忌にはデジカメも持っていったがやはり不器用なフィルムカメラで撮った。

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若い写真家の確信


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下平氏の写真展に仕事の帰りに向かう。新宿コニカの受付の3人のお姉さんはいったい何をしているのか気になるところだし、フォトプレミオの大賞展だって気になるところだったが、一目散に下平竜矢写真展「星霜連関」の解説文を探した。内野の追悼展の企画で出会って以来の短い間柄だが、トーテムポールギャラリーでの追悼展を希望したのは彼で、内野webサイトのたちあげでは実務でてんやわんやしていただいた。内野の会では一見控えめにたたずむ彼は、ちょっと前までサラリーマンをしていた僕にとっては物足りなく、自ら手を上げておきながら主張してこない身振りに少なからずいらだっていた。一人の頼りなげな青年だった。

昨日もガレリアQの牟田氏に会ったのだが、ほとんど人としゃべらない派遣生活の中では牟田さんとの会話が50%位を占めている。以前も書いたが牟田さんのDMをここしばらく作っていて下平君から「牟田さんのDMどういうことを気にして作ってるんですか?」ってほとんどしゃべりかけたりしてこなかった彼が福添氏の写真展会場の隅で突然聞いてきたことに動揺してなんと答えたのかはっきりしていない。フォントをたくさん使わない、見たいな事を答えた気もする。1999年にこの同じコニカでみた牟田さんの「帰去来」の穴のたくさんあいたクリーム色の壁に飾られたモノクロームを目の前にしたとき感じた何らかの動揺が「星霜…」にはあった。

昨日見た写真のことだけでよかった、のかもしれない。写真を見つめていると若い彼の姿が浮かんだ。知らなかったのならどう見えたのか、もうわからない。写真の深い黒の中には自分のむくんだ姿が時折浮かぶ。様ような祭事のコスプレに身を包んだ人達に対峙する青年は衣装の手元からはみだした腕時計や不釣合いでまじめなめがねのフレームに重い核心でファインダーを覗き込んでいる。ひょうきんなお面に顔を隠した神々のポートレートは見終わった後では一人の人間の表情として僕の頭の中にはインプットされている。関東近郊で執り行われたとされる祭事は僕の住む町の中での出来事でもあるにもかかわらず遠い。けれど、入れないという写真が抱え込んでいた疎外感ではなく、一人の若者が、この国に含まれているというふうに実感していることと、つながっているということに核心を抱いているかのような感覚が、変に僕の胸底に響いてくる。祭りや歓喜を取材する行為は特別ではなく、ありふれている。写真家はその特別な場から破綻や民俗めいた表層を掬い取り、構成し情念を喚起する。アーバス、フランク、須田一政。スナップ写真の意味が社会に伝わらなくなってしまった今、撮影者は常に世間から監視され、存在を許されていない。デジタルな小さなカメラたちはガタイにそぐわない高倍率のバズーカを備え、ほとんどの人がその効力を理解している。そうでないということを主張するために正方形のフォーマットは有効だ。そして、若者は再度、かつて幼いころに属していたホームらしき社会へ去来する。また、居場所を見出せなくなる。僕のことか。

そうではない、核心めいた作為が下平の写真にはみなぎっていて、打たれた。

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flickrからbloggerへの投稿


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Originally uploaded by hiroomis2008
flickrってまえまえから聞いてはいたけど、すごいことになっているのかもしれない。日本語使えんなら使わない!!とイキがっていたが、一言語だからこそ写真のタグ検索がグローバルで、世界とすっと繋がっていくことにやっとこ気づいた。グローバルなんて大嫌いだけど、仕方ない。日本の写真は閉塞気味だし、世界に吊り上げられるのは色物ばかりだ。flickrに負けました。
flickrから直接bloggerのweblogには投稿ができる。つい先日windows Live writerを使い出したばかりだけど乗り換えた。如何せん行間が詰まってしまう。何とかならないものか。それと、bloggerから直しを入れると写真のキャプションが消えてしまうよ…。

カメラ雑誌の現在


kumorizora
Originally uploaded by hiroomis2008
日本カメラ2008年7月号に内野雅文の京都の写真がやっと掲載された。生前本人が持ち込んだものである。たった8点の写真であるが、内野のまだ未完であったそのシリーズをそうっと手を差し伸べて新たなる意味へ導いてくれるような、意思のこもった強いセレクトだと感じた。本誌には内野について石井仁志氏も寄稿されているのだが、「型にはまった特別な京都を見出すことはなかった」とあるが内野自身はまだその特別な京都を脱しできていなかったし、それゆえもがくそぶりも選びきられていない六つ切りバライタの写真群からは強くは感じられなかった。内野の見た京都から処世の不変を救い上げる作業を成し遂げるまでが写真家内野雅文本人のやり遂げねばならなかったことだったのだが、あのような終わりを遂げたことはご承知のとおりである。遺作となった京都の残された写真の中には信じがたいくらいの達観したやさしさとともに拭いきれない京都の京都たる表層で覆い尽くされていて、正直不満で生きていたのならばまた、小一時間文句をたれていたのかもしれない。そこを埋める作業をするには4月の追悼展では間に合わず、5月の176では展示途中で日本カメラから戻ってきたプリントをあわせて再度構成しなおしてまでいただいた友長氏も、同じ痒さを共有していたのだと思う。日本カメラ編集長の前田さんとは、どんなお方なのだろうか。この8ページはひとつの模範解答である。天国から見えるだろうか。こうやって写真は選ぶのだよ。実家でお小遣いをもらって機嫌の良いカミさんの緩んだ財布で娘のペネロペと一緒に久しぶりにカメラ雑誌を購入した。

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遠い町で起きていること


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6 月のはじめに大阪・豊中のギャラリー176で展示された故内野雅文の写真展を見に行った。お小遣いも乏しく日帰り深夜バスでの強行で、腰の具合は最悪であったが、たまにしか行けない大阪を堪能して来た。いまさらブログに書き留めておこうというのは今週西成で起こっている暴動のことをネットで耳にしたからである。ほとんど東京のテレビでは報じられていないようだが、この暴動が起きる1週間ほど前に僕はたまたまあいりん地区に立ち寄っている。

大阪に行ってギャラリーめぐりだけして現実を目にしないのも何だなぁと、思い浮かべたのが大阪環状線新今宮駅から南下してまったく見たことのない日本の風景に打ち震えた二十歳そこそこの学生だった僕の記憶の風景であった。

当時、高校吹奏楽部同窓生が全国に散らばっていて鈍行電車の旅行のたびに各地の1Kアパートをねぐらに日本の中を巡っていた。関西方面では明石のサックスの後輩のアパートを拠点に阪神淡路大震災の神戸の町を歩いた。堺市の中百舌鳥の狂おしいほど中が良かったトロンボーンの輩は変わり者で、強がりで、子供にめっぽうやさしかったが、彼にはdeep大阪というものを案内された。古墳の町で古代の人工池の周辺の集落を指差して、この土気色にかすんだ(ように見えた)トタンの家並みと屋根の重なりに幾重にも立つ錆びて朽ちかけたUHFアンテナの陰影をなにも知らずに深い影としてブローニーに収めた事を記憶している。数年大阪にいただけですっかり関西人気取りで強がりの彼は僕に大阪のドッテリした町を歩くことを進めた。そのとき歩いたのが新今宮から南の風景だ。

天王寺周辺はウブな僕には刺激が強すぎてカメラをかまえるそぶりすら許してくれない気概で部外者の侵入を拒んでいて、強がりの彼がいなければ逃げ出してしまいそうな町の圧力を感じていた。案の定挙動不審の僕は怒鳴られるに足るカメラの構え方をしていたようだ。今思えば怒鳴られたのではなく、声をかけられただけなのかもしれない。なぜかおびえながらカメラをぶら下げていた。撮影散歩の付き合いをしてくれた強がりの彼は用事があるとかでそんな僕をおいて歩くべき方向を指示だけ出して新今宮駅から電車に乗って消えていった。このかつて取り残された駅前で、むせるくらいの労働者の原っぱで、今また事が起きている。

12.3年前の記憶の風景にすがって再度環状線に乗り、新今宮を降りることにした。やはりあいりんの匂いと汚れたコンクリートに転がる黒ずんだ肉塊の暗がりを風のように通り抜けることでしか自分を支えきれない成長のなさも感じる。ここにころがっている親父さんたちとはくらべものにならないが労働ということに関しては何らかの障害に直面している自分がやり切れずに、かつてより速い歩幅で通り過ぎた。南海電車の高架沿いに並ぶゴミとゴミからえり分けたゴミのようなものを商う戦後の闇を想像せるこの生命力とやはり匂いに、店に立ち止まる演技すらできずに早くここを出たいと思った。私淑していた写真家・楢木逸郎氏の『nomads』、妹尾豊孝氏の『大阪環状線海まわり』が頭の中にこびりついていた写真学生はこの町をやはり今と同じそぶりで通りすごしたが、どんなにシャッターを押したい欲望を抱えていたことだろう。あの時ここでカメラを構えていたのなら、そこから先の写真との関わりかたもかなり違ったものであったであろう事がたやすく想像できる。僕はこうしてここまで逃げてきたのだから。

あのときの深い衝撃は今はうすく、やり過ごすことができる。あれから少しばかり年をとったし、開高健の『三文オペラ』や井筒監督の「ガキ帝国」なんかにふれたのもそのあとのことだろう。僕の住む町の川向こうには飛田新地と同じような飲食街の組合のあることを知ったのも、普段使っている駅の周辺に点々と残っている簡易宿舎のわけを知ったのもすべてあのあどけない旅行のあとであった。知らないから撮影できる鈍感さをも持ち合わせていたのならば、より理解しようという気持ちのベクトルが図太い矢印で写真の力としてみについていたのかもしれない。まあ、いまさらではあるが。

この遠い町で起きていることをyoutubeのカクカクざわついた映像から知ることはできるようにはなったが、感じる力は衰えていってしまうのだろう。ほんの一週間前に訪れた土地から増幅していたかび臭い暴力の臭気をわずかばかりでも感じていただろうか。文字にすると大げさになりすぎてしまう。きっと感じていたのだと今日は思いたい。

20080612

彼女たち(女性、派遣、秋葉原)

20080511-DSC_6991 自分がいったい何に考えをめぐらしているかということを素直に見つめなおしてみなければいけない。理想的な自分の思考経路をブログにアップしていても意味がないのだろう(意味がないことなどないとか、意味を求めてもしょうがないという考えはやめて、あえて意味を求めたいのだけれども)。公開しているが自分に内蔵する経験や知識、感情のネタ倉庫など知れたものであるし、そうであるのならば、何に向けてウェブログを記録しつづけていくのかということを明確にしていったほうが良いのだろう。沸き出でてくる伝いたい思いがあるわけではない。自分の感じたこの日の些細な脳のシナプスの動きを忘れっぽい自分のためにここにとどめておくことだけでよい。

思い返してみなくてもそうなのだが、僕の興味は定まることがなくこのことが人生のステップを小刻みに、かつでこぼこにしている大きな障害なのだが、いつも興味のピントを合わせる前に日常の生活に飲み込まれていく。学生の時分は写真を撮りながら写真とは、写真を撮る事は何なのかを、考える方法や手段すら思い描くことのないままだらだらと思いあぐねいていたし、それからしばらくして社会に少し出ただけで自分の甲斐性のなさを社会のせいにしていたことも思いかえされる。

写真家の梅佳代の姿をNHKにて拝見した。気になってはいたがいい年をしたおじさんが堂々と彼女の写真のことを口にするのは憚っていた。家でかみさんにこっそり話す程度であった。彼女のTvの中での立ち振る舞いは同姓の目線からは多少のあざとさや天然を偽装した身振りを感じないで入られないものなのかもしれないが、発する言葉一つ一つにおじさんは感心してしまった。すべてを自然体として受け入れようとしていくひたむきな言葉に僕は動揺した。それは番組後半の観覧者からの質問コーナーに立った若い女性の問の中にあった「自然体」という言葉に反応しての梅の答えだった。「待ちで見かける人たちを自然体で写したいのだがカメラをかまえる怖さがある」という質問に「何が自然体なのか考えてみる。そこで生まれたいやな、気まずい空気すらが自然体ではないかと思う。」そして冗談交じりに「いつも気まずくなってしまうのなら、それはそれでそんな自分ってすげ-って…」。ここで恥ずかしながらおじさんは自然体という言葉がそこにある存在のありようを示すものなのではないことに気付かされてしまう。当然のことなのだが。梅はするするとかわしていく術を身に付けている。そして、最近、事(自分の写真を報道写真と皮肉交じりに呼んでいた)を見つけ出す眼力がぐんぐん成長していると、自ら言ってのける。ポジティブ過ぎる人にはどうもついていけないのだが、飄々と社会を見つめるすべを発明していく彼女の写真に嫉妬した。

新宿のガレリアQでの写真展「シメントウ」を見ながら彼女たちの写真について写真家の牟田さんとこんなことを話し込んだ。彼女たちというのは牟田さんの奥さんであり、かみさんのことでもある。この二人は写真を発表することからは遠ざかっているが、かみさんが写真学生のころ撮った一枚が今でも気になっていて頭から離れないでいる。エスカレーターの降り口に転がった卵ボーロを撮っただけの写真で、テクニックがあってかなくてか知らないが微妙なシャッタースピードのせいでボーロは見事にどこへも行けずに階段の吸い込まれ口でコロコロと転がっているのがモノクロームの中に写し込められている。牟田さんの奥さんには一冊だけ自家製のブックがあって、三重のおじいちゃんのお葬式へ東京から向かって帰ってくるまでをまとめたものが残っているそうだ。僕らはいったい何を撮っているのだろうと…。写真が現実にリンクするすべを失ってしまっている。秋葉原のあの派遣社員のように。僕も派遣という砦に引っかかって生きている。会社のことは保証人つきの誓約書があるため書くことはない。

20080609

息子の成長、父ちゃんの成長

20080607-_DSC7231 日本の避暑地と呼ばれるようなところにはたいがい国などが経営している公共の宿泊施設がある。公共の宿と俗に言われる簡保だとか国民宿舎だとか、厚生……とは違う、青少年の教育のための施設で、かなり安い。長野県の中には県内各地にそういった施設が点在していて使わない手はない。施設ごとに条件や値段、規制が異なる。たとえば区の所有の 施設なら区民以外利用できないといったような制限だ。僕が利用している川崎市八ケ岳少年自然の家は名前のとおり川崎市の施設である。東京都民の僕も関係なく受け入れてくれるし、値段も変わらない。市民以外の人間の不利な点といえば、予約が利用日の2ヶ月前からとなるとこだ。申し込みも空室確認もすべてネットからでき、一番気に入っている。そして、食事がおいしい。少年の家系では安いほうではないが、親子二人で7500円。一泊二日。食事は4食。すべて込みである。

八ケ岳の南端の編笠山に息子と二人で挑戦してきた。少年の家はこの麓にある。ハイキングの上級版程度の気持ちで立ち向かったのだが、甘かった。3000メートルにとどかんばかりのその山は名前に似つかわしくない険しい表情を最後までくずすことはなかった。

決してなめていたわけではなく、素人の僕なりに予想される限りの装備で登った。編笠頂上からの望む八ケ岳のパノラマをカメラにおさめたところで、どのとんがりがどんな名前をつけられているかさえ子供に説明できない僕には語る資格なんてないのだが、美しいと思ったし、息子をおだてて登りきってよかったと心から感じた。という、頂上での純粋な気持ちを振り切るくらいくだりの長さが身にしみた。上りの激しさを帳消しにした景色も、ひざの異常を抑えきれないくだりの苦しみのバリエーションに「二度と…」と言う禁句を息子の口から吐かせてしまった。

とはいうものの、今日の筋肉痛に息子の成長を期待しないわけではない。おっちゃんの僕ですら成長したような錯覚すらある。

20080605

山に登ろうと思う

20080531-_DSC7151高校には登山部があった。80リットルははるかに超えるのではないかと思われるリュックを背負って、校舎の階段という階段を登るのだ。リュックとは呼ばないかもしれない。当時はやっていた黒ブチメガネの彼は薄汚れた水色のリュックをさげてひたすら歩く。短く太い足には脛毛がうっそうとして、山の土がこびりついてるかのようだった。彼はおとなしいグループではあったが相性があうような気がして、チョコチョコとシニカルな会話をしていた記憶がある。今では名前も思い出せない。

山の話はしたことがない。彼の心の中心であったであろう山に、吹奏楽で急がし過ぎた僕は興味を抱くことはなかった。15年以上経って、仕事で山に登る羽目になって、山を愛する人たちとの多少の出会いが再度訪れたのだが、仕事は続かなかった。山でのカメラマン 仕事は苦しかったが、続かなかった理由ではない。

あの時、山について彼が饒舌に語ってくれたのなら、もうひとつの人生もあったのだろう。山に行かなくなって山のことを聞ける人が近くにいなくなってしまったことを寂しく思う。彼はどうして暮らしているだろうか。

20080604

ブログ投稿クライアントなるもの

20080602-_DSC7227

ブログ投稿がもっと自由な形にならないものか。写真を張り込むにしても思い通りの位置にいかなくて投げ出してしまう。

windows Live writer なるものベータ版がでたようである。早速試してみる。

20080603

若き写真家のブログの閉鎖から

内野雅文氏を慕う若き写真家が自らのブログに毎週、Uchino Masafumi Photoworks1996-2006写真図録より写真を複写して追悼の言葉を載せていた。彼のブログは突然自身の手で閉鎖された。予想もされたことで はあったが、彼を知る人から聞いたところによると内野の写真をブログに載せるのは売名行為ではないかと批判されたらしい。詳細はわからない。コメントに投 稿があったのかもしれない。
内 野は天国だか知らないがあの世で何といっているであろうか。たかだかこんなことで、長いこと続けてこれたブログを閉鎖せざる終えない状況に追い込まれた若 い心の写真家を思うと、痛い。そんなにすばらしく機知に満ち溢れたものではなかったが、ほぼ同世代の抱えるささやかで、どうしようもない直接的な問題をつ づった真っ直ぐな言葉だったと思う。こんなに著作権やら、個人情報やら肖像権なんて騒ぐような社会になっていったい何か新しい豊かなものは生まれてきたで あろうか。そういえば内野の写真はそのことに最も直球で挑んでいったものであった。ハリーポッターでも引用すればブログのアクセス数が上がって、有名人に なれるんですか。写真はたくさん見てもらえるのですか。内野のWEBサイトはお別れ会のころをピークに一日平均50人弱の閲覧で推移している。おろそ かな更新のせいでもあるがまともな写真が人々の目に触れる可能性は著しく低下しているし、社会が写真の内包していた仕組みを必要としなくなってきた。一枚 の写真から放たれる僕たちが持っていた「記憶の島」はシャープネスとインクジェットの波に浸食され僅かばかりの陸地が残っているに過ぎない。

20080530

パソコンの前にいる時間が長すぎる


いつの間にか何を調べるにつけてもまずネットで。10年ほど前、仕事帰りの中華料理屋で、「もうネットがないと生きていけない」と言い切ったO氏に、そん なことになるはずがないと逆に言い切ったことを忘れたわけではない。当時の仕事はまさに調べること自体が仕事のようなもので、100年間の年表を作る編集 部で下働きをしていて、図書室で如何に求めている資料を迅速にゲットするかをゲームのような感覚でやっていた。
ほとんどの情報をネットに頼り切っていることが正しい方向ではないような感覚を持ちつつも、この座ったままで世界とつながっているような重力に逆らえないでいる。それにしてもパソコンの前での在住時間の長さにうん、ざりもしている。
仕事で7時間、自宅で3時間起きている時間の50%でモニターを通して世界と関わったふりをしている。
残りの人生の半分がパソコンの前で終わってしまうことを想像したらとんでもない自分の結末である。情報を得るスピードを上げるために2年くらい前からはて なのRSSリーダーとキーワード、googleアラートなどを利用して抽出感度を自分なりに上げてきたつもりであるが、ネットを伝ってくるデータ量は膨ら むばかりで時間が短縮されない。ことによっては情報欲が四方八方に枝葉を伸ばしていく始末である。
こんなこと必要ないことだったな、と年老いるまで生き続けることができたのなら、つぶやいているのだろう。
だって、雲の垂れ込めた河原の風になびいて5月の美しい葉っぱの裏側を覗かしてくれるそこにある木の名前も知らないし、僕の鼻をむずがゆくさせる5月の花 粉の正体さえ忘れていってしまう。僕の怠惰ではあるが、もうそろそろ見きわめて歩いていかないと時間が足りないのではないかと、最近思うのである。
見きわめることなんかできないとは思うけれど、天邪鬼にならずに、何でもできると自惚れずに、まじめにね。
またパソコンの前に長居している。やばい。

20080527

「父と子」/息子に写真を拒否られる父親

リピートやらダルセーニョやらをあざとく飛ばしピアノの練習を早々と切り上げようとする息子さんに横槍を入れたとたん、彼は金切り声で発狂しだした。別に責めているわけではないのだが、パブロフの犬のようにピアノや宿題や、折り紙やらに苦言すると発狂し、全身で「言わないで!!」と叫ぶ。「言わないで…(わかっているから)」を言い出したらほっておくしかない。いつもより激しく地団太を踏む彼を近くにあったデジカメでパチリとしたら、今度は「消して!!」とわめきだした。あまりの迫力に自分の行為の大人気さを悔やむばかりか申し訳なくなって「消すよ」と苦笑いで息子の前で写真を消した。これでよかったのだろうか。目の前で消すのは前職の写真屋さんのときの癖なのだろう。すべてにおいて悪い判断であった。消すべきであっただろうか。
ヒョンなきっかけで借りてきた水上勉「父と子」を読みながら思った。

20080522

写真展のDM作成とは







写真家の牟田さんよりDMの作成依頼が舞い込んできて、久しぶりの現像は明日以降に持ち越しとなった。牟田氏のDMは2002年の4月から続いている。どういうわけか他人のDMを作らせたらそこそこのものである。つい最近の遅ればせながらの就職活動用に過去のDMをあさってまとめておいたものを眺めてみると、よった勢いでの嘆きではあるが、どうして食うに困ってしまうのか途方にくれてしまう。また飲めないのにニーハオでビールをおごってもらってしまった。これがギャラである。不満はありません。
ニーハオでの打ち合わせで、牟田さんがビールを飲みつつ、僕がキャビネに焼かれた数枚の写真をのんびり眺めてしばしの沈黙のあと、いつものように感想やら世間話を始めるのだ。以前は年上の先輩に向ってプリント再提出も辞さなかったが、最近は写真展間際に持ってくるようになった。持ってくるというのは、つまり、僕の住む町まで写真を持ってきてもらうのだ。あまり都心に出ない僕に合わせてこういうスタイルが定着してしまった。
印刷物があがったときは気持ち良い、の一言に尽きるのであるが、なかなか難儀。写真をどう見せるべきなのかを考える。その写真展がどういうしゃべり方で着てくれた人たちに話しかけると伝わっていきやすいのかを考える。写真家本人は考えづらいことなのかもしれない。自分をプロデュースしちゃう感じではちょっとかっこ悪いので、僕がその難儀を引き受けることにしている。そんな大それたことではないけれど依頼が来なくなったらさびしいね。明日、日々睡魔との戦いである仕事の最中に申し訳ない心で、ゆっくり考えてみる。

20080518

久しぶりの感じ


息子を連れまわして電車にでも乗ってのんびり景色を眺めてみたいのだが、なんせ彼は忙しいらしく、相手にしていただけない。日曜日ともなれば朝6:30からアニメやらヒーローものの男の子番組が8:30まで続きそれが終わると玄関のドアがたたかれ、隣やら、はす向かいやら、児童館の隣のマンションやらの子供らが迎えに来る。ライバルたち。まあ、何とかガチャガチャでつって11:00過ぎに息子を取り戻した。
最初にガチャガチャを買うとすぐ帰りたくなるのがわかっているので、最後まで引っ張るのだ。
隣町の川崎では映画の宣伝で、信じられないくらいの人だかりの中、待つこと30分、出てきた芸能人のおじさんにチビの興味が行くわけでなく、すぐに退散。水谷豊なのに。結局久々の暑さと昨日の運動会の痛みに体が持ちこたえられずに戻ってきてしまったが最後、待ち構えていた近所のライバルたちに彼はまた拉致されていってしまった。
久しぶりに悪夢で夜鳴きする息子を寝かし付けに行ったカミさんのいない間に仕事の若い同僚に借りたDVDをみた。若い彼が数年前に学校でつくったドラマだ。15分ほどの短いもので、ミュージシャンを目指す青年のわずかばかりの音楽に対する情熱へのつまずきを、シンプルな物語で描いた美しい映像であった。正直、職場の彼から想像するに、見てから感想を言わなくてはいけないギクシャク感が怖くて、借りるのをためらったのだが、一旦そっけなくカラ返事で返したDVDを、携帯にメールして週末に持ってきてもらった。僕にDVDを手にして、未熟さとそのわずかな誇りをうれしそうにしゃべる若い彼は撮影を担当していたようだ。美しかったし、主役の青年の表情はかっこよかった。
「MORNING GLORY」というその映像を久しぶりの感覚で見入ってしまった。

20080506

メモ


RSSの折れ線グラフで表示されるuchinoWEBの急激なアクセス数の推移に、こんなことに一喜一憂して生きていかなくてはならない世界にくらしている僕や息子たちの人生に、寂しさみたいなものを感じないではない。
昨日、おとといと写真家のI氏の犬吠近くの別宅で潮干狩りに行ってきた。アサリの酒蒸しの創造物からあふれた唾液を喉元に溜め込んで向ったのだが、あいにくのゴールデンウィーク空模様。幾分気温が上がった大潮の時間に浜へと繰り出した。歩いて5分。植生が毎年変化していくのだという、砂ばかりの土地をわずかに覆った草花の細道を、昨日までの夜露をビーサンの指に受けながら進む。心地よい海風を浴びながら人口の防砂林を抜け海の入口に人たちの気配を感じる。
ハマグリであった。長い棒を海に差して砂にもぐった貝を探し当てる。海と砂浜から水蒸気が立ちこめ気圧の谷の直下、立ち込める暗い雲の覆う海に無数の棒を持った漁師の姿が浮かぶ。迂闊であった。塩水を畏れてカメラを持ってこなかった。久しぶりの感覚。塩の干潮。大きいね。
もう、内野の写真は隅っこに置いて、大げさに言ってみれば自分の目で日本を眺めていかなくてはならないな。内野は大げさに眺めていた。結局、身振りなんて関係ないことだったのだけれど。
メモしておかなければならない。
内野の中学時代の同級生の後藤氏によると、北海道での「車窓から」の撮影旅行の際、フォトビューワがたの携帯用ハードディスクを札幌の駅ロッカーで紛失したそうだ。旅の前半のデータをすべて失ったことに大変落ち込んでいたらしい。あわせて、「北へ」にはそのことがあって不満を感じていたらしい。
不思議なものだ。

20080503

「内野雅文さんお別れの会」無事終了!!


<文体を変えます。>先日080427日曜日に四谷第三小学校跡地の四谷ひろば・多目的ルームで「内野雅文さんお別れの会」を内野雅文の会主催で開催した。やっとここまでたどり着き、当日大きな揉め事も諍いもなく終了したことにホッとして飲めないビールを飲んでしまった。(というか、会の最中に飲んでしまい、使い物にならなくなってしまった。)大学時代の友人に指摘されていたように、大事を終えた焦燥感から抜け殻になってしまうのではないかという危惧は、ものの見事に最近の僕自身に当てはまっている。
ここ数ヶ月、子供を寝かしつけ(というか子供より早く寝てしまうのだが)つつ就寝し、朝、爺さんよりも早く起きて内野の作業をしていた。しかし、お別れの会以降、起きれない。下手をしたら息子より長い時間寝ている日もある。抜け殻だ。
今年は5月だというのに憂鬱になっていない。例年、ウツにまでならないようだがかなり不自然な思考回路の五月病的症状になっていた。去年のゴールデンウィークの三ッ池公園ではたかが風船のことで家族が崩壊の危機に陥った。今年は内野のおかげだろうか、お別れ絵がもう少し早いタイミングだったらわからないが、心地よい抜け殻状態で生きている。
uchinoWEBにお別れ会の写真をアップした。会の川口氏の撮影である。細江さんと高梨さんの話は北野さんがブログで上手に説明している。是非。

uchinomasafumi.comのアクセス


アクセス数は080428をピークに徐々に下がっています。地域ごとのアクセス数を見ますと新宿が一番多いのは理解できるのですが、全国いたるところからアクセスされています。
しかしまあ、こんなことがわかってしまう世の中は生きづらいものですね。

20080419

検索ロボット

www.uchinomasafumi.comがやっとgoogleとyahoo!で検索にひっかるようになりました。いったいどういう仕組みなのでしょうか。まずは、一安心です。トップページに展覧会情報があるわけでもなく、クレームもありましたが、当分この形態で行きます。
「内野…」で検索していますと、いろんな人がブログに取り上げていて、感心するばかりです。大学時代の同期の映画監督が紹介していてくれたりします。
このブログも最初、内野雅文の会のご両親に対する活動報告をかねてはじめたのですが、公開したからにはいつまでも猫をかぶった文体で通すわけにもいかないようです。
続けるなら続けるなりの本当の言葉を模索していかなければ、この辺で閉じたほうが良いのかもしれません。

20080416

内野雅文webサイト公開にあわせ、このブログも一応、公開


20080414にご両親の了解を得まして写真のデータベースとして「内野雅文 1973-2008 Photo-Document │ 資料」を開設いたしました。これにあわせてこのウェブログも公開いたしました。今までのピカーサへのリンクは上記webサイトへリンクを張り替えてあるため、多少つじつまの合わない部分もあるかもしれません。ご了承ください。
「内野雅文 1973-2008 Photo-Document │ 資料」はトーテンポールの下平氏とニエプスの寺門氏に、このブログ上で公開しながら整理したデータを下に製作していただきました。
まだ、現状では重いページが随分あります。追々直していきます。皆さん、リンクを貼ってください。

20080410

追悼文集刷り上りました。

遺作「京都」のシリーズ

遺作となった京都のシリーズです。内野は2007年1月に京都に住まいを移し、精力的に取材を続けていたようです。「野ざらし紀行」が京都へ向う旅の記録であったことの答えとして内野が導き出していた答えを映像の形として残そうとしていたのでしょう。
ピカーサにアップしたものは実家や京都のアパートに点在して残されていた6切プリントの中から内野雅文の会の石井氏を中心にセレクトされたものです。20080423-29ギャラリーニエプス、20080524-0603ギャラリー176ではこの中から展示される予定です。タイトルの「我、上洛スル」は印画紙箱に入っていた本人の手書きの文章のタイトルです。
これとは別に、日本カメラの前田氏の元に掲載を依頼しに持ち込んだプリントが多数あると思われます。日本カメラへは「今日の京」として作品が持ち込まれています。掲載は未定です。
なお、「Photo-Document内野雅文追悼展」のDMに使われた2点の写真はピカーサには含まれていません。

写真集の形でまとめられていた「アイドル」

京都のデスクトップの何度も確認しているフォルダの中に「清里用」というフォルダがあったのですが、写真データが少なかったのでザーッと見ただけで見過ごしていました。イラストレーターで作られている「アイドル」の写真集データを見つけました。写真が埋め込まれていたり、リンクで貼ってあったりと作り方にむらがあるので、本人が作ったのではないかと思われます。20051016から20060301までゆっくりとしたペースで、製作が続けられていたことが更新記録からわかります。撮影期間は特定できませんでした。

20080409

車窓から 北へ(完璧版)をアップ

内野自宅に残されていた自家製本の写真集Masafumi Uchino PHOTOGRAPHS。「車窓から」の北海道バージョンです。撮影は2006年7.8月。
1カットだけダブりの写真がありましたので、点数は表紙含め148点です。
並びは本の順番ですが(ピカーサにアップした時点で並びが変更されてしまいました。直す方法がわかりません)、各所に余白が設けられていますので、本のようなすっきりとした印象が伝わりにくいかと思います。また、本自体の出力はコート系の紙にエプソンの5500だと思われるのですが、その黒のしまりの悪さがこの写真集には不可欠な要素であるのかもしれません。デジカメの元データから抽出したものですから、黒の中のディティールがモニターでは伝わらないようです。
データは大阪にあったHD_Fにありました。「北海道」、「北海道2」というフォルダのなかはさらに「右」「左」というフォルダに分けられていて、興味深く感じました。多少のトリミングと角度修正がされているものもありましたが、アップした写真が補正されたものであるかは確認取れていません。

20080331

20080329入稿

先週の土曜日、新宿山吹町のcomplexという印刷屋さんに追悼+資料集の入稿にいってきました。
2日間、インクジェットで出力したものを読み続けていますと、あれよあれよと、小さな間違いが見つかって悔しいばかりです。4/10に出来上がります。これで、無事ニコンとトーテンポールの展示には間に合いました。
ただいま、ニエプスの寺門氏と、トーテンの下平氏で、内野のデータベースとなるホームページを作成中です。私は素人もいいところですので、お任せしています。
4/10を目指して作成中です。

20080325

「車窓から」北海道バージョンをアップ

「北へ」をピカーサにアップしました。2006年7月から8月にかけて撮影された北海道の車窓からの写真です。
「UCHINO PHOTOGRAPHS」と題された白い表紙の自家製本。
この本には148点の写真が収録されていますが、ここにアップしたのはハードディスクに残されていた「車窓-北海道2」という名前のフォルダに入っていたすべての写真です。
まだ、未確認ですが、このフォルダのほとんどの写真が本に入っていると思われます。

20080322

北海道の未発表作品をアップ

追悼文を寄せていただいた中学校時代のご友人から現在JR北海道で勤務されている同窓生の後藤さんをご紹介いただきました。内野が北海道にいった際には必ずといっていいくらいその方を訪ね、そこを拠点に旅を続けていたようです。船橋の実家にあった白い自家製本の「車窓から」北海道バージョンは200607のおわりごろ後藤さん方をよりどころとして撮影を重ねた一冊であったようです。内野は電車から見える風景の話はするものの実際の写真を見たことがなく、後藤さんに是非見せてくれと切望されたのに驚いたしだいです。北海道のデータを整理している最中に白い本の表紙の.ai
データが出てきました。当初のタイトルは「北へ」でした。(最終的には「uchino photographs」として作られました。)表紙の最終更新日時は20070112です。(HD_F)
追悼資料集に追加で原稿を依頼し、北海道の写真を載せることにいたしました。

ピカーサにアップした写真は後藤さんいわく「200202の冬の北海道に車で撮影に来た」折のものであると思われます。ちなみに右の写真は白い本の1ページ目の写真です。

20080321

うりずんパノラマをアップ

うりずんパノラマ(未発表)をピカーサにアップしました。ほとんどのカットが沖縄と呼べそうな土地で撮影されていますが、まれに本土の匂いを感じさせるものが混ざっています。場所の特定はできません。うりずんの2005ファイルのセレクトからはずされた「もうひとつのうりずん」の中にあるカットと同じシーンがパノラマでも撮影されています。

20080316

080316ミーティング



本日、四谷のルーニーにて内野雅文の会ミーティングを行いました。
決定、確認事項は

  • kmopa応募用のプリントを「アイドル」のシリーズから選定。10点。
大阪ナダール用展示で林氏のセレクトしたものから2点を含みます。その2点に関しては佐原が応募用にデータを探しインクジェット出力を依頼。
京都のシリーズは前回セレクトのニエプス展示のものをすべてスキャニングし、インクジェットで出力したものを全点応募することになりました。スキャニングは福添、出力は未定。追悼文集にも掲載するため取り急ぎ。応募タイトルは展示名と変えて「京都」で落ち着きました。ちなみに「アイドル」はカタカナ表記です。
176展示はニエプスの展示からの移動になると思いますが、ニエプスで使った額やマットを転用できるよう篠原氏に依頼しました。

  • トーテムポールの展示セレクト
下平氏の意見で、壁一列ですっきり見せるために同じサイズのプリントを22点セレクトしました。その中にナダールで使用する(dmで使った)空港の写真があるため、展示後大阪に回す手配をとらなくてはなりません。
  • ニエプスの展示作品の確認
dm製作のため2点の写真がデザイナーの秋山氏の下へいっていると思われます。返却してもらってください。56点現在ニエプスに保管されています。

  • データベースとしてのホームページの作成
本日、中藤氏の代理で参加されたニエプスのHP管理者である、寺門氏に製作を依頼。下平氏と二人で、3月末までに完成予定です。
  • ルーニーの展示セレクト
各壁ごとに1シリーズを配置。「野ざらし紀行」、「空と海への…」は4切で統一。「東京ファイル」はコニカ展示の半切プリントからセレクト。「うりずん」はエクタルアの印画紙で焼かれたもので統一。うりずん以前に「南へ」のタイトルでkmopaに応募されたシリーズからもあわせて、全紙・4切・6切を混ぜて一番大きな壁で壁面構成。
  • 経費について
全体の経費を把握するために、自己申告制で、googleドキュメントに領収書の出ているものにかぎり各自記入。一部金額が張るものに関しては借入金の中から随時返金いたします。基本的には最終決済が終わってからの返却になります。管理は小平から佐原がひきついで行います。
  • お別れ会の流れについて
小平氏から当日想定される事柄をレジュメで提出していただき、全員で再検討しました。これをもとに福添、坂口、川口氏の3人で、当日までに手配と準備をしていただきます。食事、各ギャラリーの店番と当日の受付、会計の人員配置は主に川口氏から造形大学写真部OBのお力を借りて手配。0319の四谷ひろばプレ公開後福添、坂口両氏で、段取りの詳細打ち合わせ。
  • dmについて
ニコンの枚数が足りないので、まずニコンの田中氏に掛け合っていただき、どうしようもなければデータをいただいてこちらで増す刷り。データもだめなら新規に作る。とりあえず先に始まる東京分のみ在庫で発送開始。各自郵送したい場合は福添を通して必要枚数をゲットしてください。送料は計上していただければ経費から落ちます。
  • ヴィジュアルアーツ写真集公募について
「車窓から」の内野氏自家製本2冊で応募します。ニエプスの村上氏に寺門氏から募集関連の諸事務を依頼していただきます。規定に100点以下とあるが、故人であることで了承を得てもらおうと決定。
  • 追悼文について
デザイナーの秋山氏にも協力いただいて進行中です。タイトルを検討しました。
 内野雅文1973-2008
 photo-document
 資料+追悼

という案を石井氏からいただきました。追悼文集では、ない、というニュアンスです。秋山氏のデザインを見ていただいてから皆さんのご意見を伺います。本文の写真をサムネールで掲載する部分と年表部分のレイアウトも秋山氏にお願いしました。追悼本文は資料整理が追いつかない関係上佐原が引き続き製作します。印刷会社は漫画同人誌専門のcomflex(新宿・山吹町印刷のメッカ)です。0315に担当の福田さんと打ち合わせてきました。安く上げるためシルバー版をもちいての印刷ですが、親身に教えていただきました。
加えて年表製作に写真界の部分で大日方氏、内野の学生時代について寺島氏にご協力いただいています。
  • 入稿スケジュール
0323リミットで1校を上げます。pdfでまわしますので、0324深夜までに返信ください。おおきな変更がない限り強行スケジュールなのですが、訂正後0326に仮入稿で見積もりを取ります。問題がなければ追加金が発生せず早割り料金適用で0329本入稿です。ニコンの会期前にあわせた設定ですので、大変なことが起こった場合はお別れ会前に合わせたスケジュールを立て直します。

以上です。

20080314

kmopaの収蔵作品をアップ

kmopaの収蔵作品をアップしました。計38点。現在、清里のkmopaフォトミュージアムで展示されている内野作品のすべてです。kmopaの野崎氏のご好意で[内野雅文の会」に提供していただきました。やはり、写真整理の段階では出てこなかったカットが「ケータイ」の中に見られました。また、1997に「東京ファイル」(学生時代の授業の課題から派生した東京のスナップのシリーズ。コニカで新しい写真家登場の中で1996に発表)を応募してから時間を空けて1999年に「ある町の記憶」の写真を応募している。「ある町…」は1996の卒業制作だから随分と昔の作品を引っ張り出して応募したことになる。
常に一心不乱に写真家人生を突き進んだかに見えがちであるが、1999にコニカで発表した「うりずん」にいたるまでの間の数年間の彼の心の葛藤を汲み取る事ができるのではないでしょうか。
この空白に(34年間の彼の人生の中では大きな時間である)、沖縄に通い、レースクイーン撮影のアシスタントをし、スタジオで脚立から落ちて大怪我をしたのだなあ、と、一呼吸おいて内野の写真を見つめなおしてみなければならないようです。

1997年 購入作品
97-01/05.1997年 購入作品 「東京ファイル」 1995年
97-02/05.1997年 購入作品 「東京ファイル」 1995年
97-03/05.1997年 購入作品 「東京ファイル」 1995年
97-04/05.1997年 購入作品 「東京ファイル」 1995年
97-05/05.1997年 購入作品 「東京ファイル」 1995年

1999年 購入作品
99-01/02.1999年 購入作品 「ある町の記憶」 1995年
99-02/02.1999年 購入作品 「ある町の記憶」 1995年

2000年 購入作品
00-01/04.2000年 購入作品 「うりずん -沖縄先島-」 1998年 
00-02/04.2000年 購入作品 「うりずん -沖縄先島-」 1998年
00-03/04.2000年 購入作品 「うりずん -沖縄先島-」 1998年
00-04/04.2000年 購入作品 「うりずん -沖縄先島-」 1998年

2001年 購入作品
01-01/03.2001年 購入作品 「遍土」 1999年
01-02/03.2001年 購入作品 「遍土」 1999年
01-03/03.2001年 購入作品 「遍土」 1999年

2002年 購入作品
02-01/02.2002年 購入作品 「野ざらし紀行」 2001年
02-02/02.2002年 購入作品 「野ざらし紀行」 2001年

2004年 購入作品
04-01/08.2004年 購入作品 「ケータイ」 1996年
04-02/08.2004年 購入作品 「ケータイ」 2000年
04-03/08.2004年 購入作品 「ケータイ」 1999年
04-04/08.2004年 購入作品 「ケータイ」 2002年
04-05/08.2004年 購入作品 「ケータイ」 1996年
04-06/08.2004年 購入作品 「ケータイ」 1998年
04-07/08.2004年 購入作品 「ケータイ」 1996年
04-08/08.2004年 購入作品 「ケータイ」 1998年

2005年 購入作品
05-01/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 2004年
05-02/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 1998年
05-03/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 2002年
05-04/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 2000年
05-05/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 1998年
05-06/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 2000年
05-07/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 2002年
05-08/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 2002年
05-09/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 1999年
05-10/10.2005年 購入作品 「ケータイ」 2001年

2007年 購入作品
07-01/04.2007年 購入作品 「車窓から」 2005年
07-02/04.2007年 購入作品 「車窓から」 2005年
07-03/04.2007年 購入作品 「車窓から」 2006年
07-04/04.2007年 購入作品 「車窓から」 2006年


収蔵順に並べてあります。また、内野所有kmopa返却作品の中に「ナイトロード」(学生時代の写真部での学祭展示)、「タイトル不明」(ヌード作品)、「南へ」(うりずんの前形)、「オシコク」(空と海への巡礼の前形)があり、応募不採用であったと思われます。四国のお遍路の作品はkmpa収蔵時点では「遍土」とタイトルされてます。「ケータイ」は1996年から撮影しているものを満を持して2004年に応募しています。2005でも「ケータイ」で応募していますが、1998撮の作品も見られます。「カガミノナカ」は応募しているかどうか分かりませんが、収蔵されていません。2005-06撮の車窓シリーズが「車窓から」というタイトルで収蔵されています。

20080307

追悼文集編集開始

080427に四谷の旧小学校を借りてお別れ会を開くのですが、その折に配布する追悼文集の編集に入りました。追悼文は予定の9割がたあつまりました。どのくらいスペースが確保できるか分かりませんが、作品のサムネールとともに、多くの思い出写真を入れ込んでいきたいと考えています。
というわけで写真を募集します。
といってもこのブログはいまだ公に開かれていないので、あまり意味がないのですが、flashによる写真のデータベースのweb公開がまだできずにいるもので、完了後このブログも公開します。
そのまえに、お別れ会が終わってしまうかもしれませんが…。

住所録完成

膨大な住所録になってしまいました。それも内野氏の人望の広さによるものなのでしょう。近日中にドキュメントのほうにアップします。

20080304

写真家の住所録

回顧展に向けてのdm発送作業を1週間後に控えて住所録の整理を行っています。
内野氏自身が整理してある住所録から450人ほど抽出し、各展示ギャラリーの住所と照らし合わせをしていて気づくことがあります。内野氏の住所録には「御中」がないということです。「…担当者様」すらありません。すべてのギャラリー・メーカー・出版社に個人あてでdmを出していたようです。強い意識を感ぜずに入られませんでした。

20080302

不慣れなインタビュー


080229ご自宅でさまざまな打ち合わせとあわせて、ご両親に内野氏の生い立ちをうかがう機会をもうけていただきました。私の準備不足もあり、大変な時間を割いていただきありがたい限りでありました。まずは彼がカメラを初めて手にするくだりや、人との出会いの中で撮影する喜びを見出していく過程をインタビューすることが目的でした。不慣れなインタビューに快くかつ、長時間に及びお付き合いいただき多くの貴重なエピソードを追悼文集に追加することができそうです。自分は内野氏よりわずか1ヶ月遅れて生まれただけのものですから、なんとも、不思議な経験でした。

20080226

すいません

080225の朝からコメントを入れることができなかったようです。
設定を変更いたしましたので、まだ、だめなようでしたらご連絡ください。

20080225

ミ-ティング詳細

080224(日)rooneeにてミーティングが行われました。決定・確認事項のまとめです。
参加者 石井・篠原・北野・川口・中藤小平・佐原・福添下平(年齢順・予想)

  • 1・内野氏所蔵の作品確認
  • 2・各会場での展示内容とタイトルの決定
  • 3・dmの使用写真・仕様・日程の決定
  • 4・ニエプス展での京都写真のセレクト
  • 5・プレスリーリース・広報連絡先等について
  • 6・次回kmpa公募作品のセレクト
  • 7・経費、当日手伝いの確認
  • 8・次回ミーティングの確認
以下詳細です

1・は石井氏に主に半切以上のプリントを確認していただきました。詳しい内容は前記にあります。小さいプリントに関しては京都のもの以外はみていません。必要に応じて次回チェックをしなければならないかもしれません。
2・ニエプス→京都の写真を六切の本人の手焼きの写真で構成。
ルーニー→白黒の初期作品のダイジェスト展示(「東京ファイル」~「野ざらし紀行」)。
トーテムポール→「ケータイと鏡」より所蔵作品より
ナダール→「ケータイと鏡」で依頼(開催未定)
ギャラリー176→京都(生前に本人が予定済)
3・大判はがきにニエプス・ルーニー・トーテムの3会場での写真・情報を併記。あわせて大阪展とkmpaでの所蔵作全作品展示の告知。”2005ファイル”こと「photo-document1995-2005」より全体を統一するタイトルとして「photo-document」に決定。
部数:2500(発送800max、置き1000(東京)・500(大阪)、ご両親200+α)
080316までに発送作業完了。トーテムの顧客リストより内野住所録と照らし合わせ(下平・福添・佐原)←大阪は大阪で送ることになったけれど……要再考。すべてを1通で、大阪の住所録と照らし合わせまで済まして(手間ですが)送ったほうが経費が助かるのではないか。
4・56点セレクト。サブタイトルが本人の残した手書き原稿の「我、上洛する(ママ)」でいくのか検討。本人が選んだ作品ではないことを考慮しなければならない。
5・北野氏に担当していただく。0320発行紙の締め切りが近いので、dm掲載のテキスト(
お別れ会お知らせテキスト←)がおきた時点で北野氏にメール。(←篠原)。
6・「IDOL」10点(展示作品外からも再検討)、「京都(仮)」60点(?)で応募。今後、時間を作って石井氏セレクト。京都の写真は応募時期と展示が重なるのでインクジェット出力でとりあえずの応募、審査。(データ抽出もしくはスキャン、インクジェットプリント→佐原)。審査会当日に石井氏によるプリント差し替えで日程が間に合うかも確認。
7・川口氏が造形写真部OBの方にも依頼。080414(月)ニコン・トーテム搬入、0422(火)ルーニー・ニエプス搬入。他、会期中常駐、搬出人。
8・080316(日)を予定。場所未定。


以上、まとめてみましたが、足らない部分フォローお願いします。

20080224

「うりずん」のコニカセレクト解析

199905にコニカで展示された「うりずん」の展示風景写真より判別したセレクト写真です。2005ファイルの本人コメントにコニカでは40点展示とありますので、4点確認できませんでした。この36点については何らかのプリントが残っています。2005ファイルではかなり枚数を追加している一方で、ここからはじかれた写真も7点ほどあります。

未発表ですが、資料として1

うりずんのセレクト外の六切プリントから子供達をとらえた新鮮なかたまりがありましたので、簡単にではありますが、セレクトしてアップいたしました。本人の本位であるかどうかは全く解らないのですが、資料としてです。また、近々の京都を撮りつづけていた一連の中に多く子供の何気ない姿が登場していることとあわせて、興味深く感じました。


ギャラリー176展示のセレクトがわからないため今後、未発表のものも合わせてアップしていきます。

2005ファイルの写真をアップ

内野氏のデスクトップより見つかった2005ファイル(本人はphoto-document1995-2005と題しています)のデータより、全貌をPicasaにアップしました。プリントとしては残っていないものがたくさんあります。フィルムで撮影した写真をどのようにデータ化したのかわからないのですが、もしかすると、全紙で残っている写真とかと微妙なコマ違いなどがありますので、フィルムスキャンの可能性もあるといえます。2005ファイルのセレクトはポートフォリオを作るためのやっつけであった可能性も否定できないのです。


今回アップした中にある「信州にて」はポートフォリオを作ろうとしたデータは残っていましたが、実際に簡易製本されている冊子には載せなかったようです。前からそろっていた「ある町の…」は追加しませんでした。「IDOL」は元データでしたので前回のプリントから複写の色味の違いとシャープさがずいぶん違うと感じましたのでアップしました。

20080223

ハードディスクって

ご両親からお預かりした内野氏のハードディスクをadobelightroomでカタログ化しているのですが、大変な作業に手を出してしまったものです。300Gバイトのハードディスクに2万から4万の写真データが入っています。今手元にあるのは4台。目的はギャラリー176での展示風景を探すことだけなのですが、日付で展示会期の写真データを検索しようという魂胆でありましたが、そこまでなかなかたどり着けません。4台はそれぞれ違う構成で、同時期のものが複数台にあったり、なかったりで決まったルールを見つけることができません。また、ハードディスクの種類も古いタイプのものはvista用のドライバーが存在せず、XPで確認しています。このほかに数台大阪にまだあるようです。展示風景の撮影がこれほどまで必要になってくるとは、本人が最後にどの写真を選んだのか知るすべは他にないものでしょうか。

20080219

展示できそうなプリント数まとめ

各作品の最終形態というものがまだ、未確認なのですが、2005ファイル(2005年10月時点で本人が製作したポートフォリオ)を基準に写真と照らし合わせる作業をしてまいりました。それというのも、セレクト時期によって作品の質が大きく異なっている状況でしたので、とりあえずの作業でした。本当は大阪のギャラリー176での展示を最終形態と考えたいところでしたが、展示風景がほとんど見つかっていません。(現在、「車窓から」全体と一部見えない「ケータイと鏡」のみ

以下が、2005ファイルに則した現時点(2/15回収分は追って整理いたします)で作品としてそろっているカット数です。(プリントの質や、印画紙・サイズにはばらつきがあります。)


他に、未発表の北海道の「車窓から」以外の六切BWプリントと、千葉のギャラリーナジャで発表した「信州にて」の展示プリントが出てきました。「京都(仮称)」に関しては六切BWプリントのセレクト外のものも多数ありましたが、展示用プリントまでにはいたっていないようです。

20080218

デジカメデータ再検証

内野氏のデジカメデータの元データを集めています。デスクトップパソコンに残っているデジカメで撮影された写真データは4種類です。

  • ロウデータそのもの(拡張子CR2)
  • digital photo professional(カメラ付属)で出力されたjpg又はtiffデータ
  • photoshop7.0で加工されたjpg又はtiffデータ
  • canonのカメラから直接取り込んだ未加工のjpgデータ
200502~200710ころの間のデータが保存されていて、CR2があるのが200604~06・200702~08です。バックアップ用HDにCR2だけ移した可能性はありますが、決まった管理のしかたはないようです。
カメラはcanon 10d→20d→5dと変遷しています。亡くなった日にぶら下げていた借り物のD100のデータはありませんでした。とりあえず元データであるなしにかかわらず、ニコンの展示写真のファイルは全部集めることができました。(tiff39枚、ロウ3枚、jpg4枚の計46枚)

書き忘れましたが、

このウェブログは現時点で公には非公開です。招待制をとっているためパスワードの入力等ご不便をかけますが、ご了承ください。ご両親の許可を得て運営しています。Picasaへのリンクが張ってある為、写真のデータ流出を防ぐことがせきません。追々、内野氏の写真はflashでのアップに切り替えて、誰でも見れるアーカイヴにできればとお父さんに伝えてあります。何か、よい方法がございましたらアドバイスください。

昨日、内野家にあった写真の整理が終わりました

まず、整理するに当たってランクを設定しました。箱やケースにはランクにかかわらず管理番号を設定して、4つに分けました。080216以前の整理では”やれ”かそうでないか、くらいの区分けでしたので後日整理しなおします。また080216以前整理のものはご好意で四谷のギャラリーRoonee 247で一旦保管していただいています。

  • Aランク  展示の有無にかかわらず一連の作品としてまとめられている。
  • Bランク  基本的に”やれ”プリント。未発表の魅力的なカットが混ざっている(主観的ですが)
  • Cランク  ”やれ”(ためし焼きや、セレクトのためのラフプリント。再確認の必要なし)
  • Dランク  捨て(実際に捨てませんが。)
Aランクはすべて複写します。Bランクは一部選んで複写します。C・Dランクは複写しませんし、今後あける必要がないと現時点で判断しています。また、Aランクより4月の展示に必要そうなものだけRooneeさんに運びます。整理番号は各箱の表面の横位置左下に40.64×12.7mmの白いシールで張ってあります。また、その一覧表がGoogleドキュメントにあります。

それぞれの箱は基本的に生前の内野氏自身が分けていたものであるため(一部みかん箱の中身はこちらで整理しなおしました。)、箱から部分的に取り出す際は写真裏面に整理番号を記した
統一規格のシールを貼るつもりでいます。シールは保管の観点からあまりよろしくないと思われますが、鉛筆手書きであるとその写真に対する判断が後々あいまいになっていくことが懸念されます。


20080217

内野氏のデジタル写真データについて

まだ、京都のパソコンを調べだしたばかりなのですが、基本的に内野氏はデジカメの撮影データをjpegで管理していたと思われる節があります。バックアップデータにはCR2拡張子のロウデータも多々あるのですが、たとえば、kmpaに応募した「IDOL」の写真はイラストレーターのトンボ入り台紙データにjpegの写真を配置しています。それをラボでトンボごと出しています。そのjpegのデータにはカメラ情報が入っていますし、ファイル名はカメラ内で作られたimg_0000なので、撮影時からjpeg保存が基本ではなかったかと思われます。また、ロウ現像するソフトがパソコンには一見、見つかりませんでした(photoshopは7.0を使用しています)。撮影枚数も尋常ではないので、ロウでは管理がきつかったとも考えられます。
どうでしょう?

「車窓から」というタイトルについて

車窓から」というタイトルはヘンではないのかという話題に小平氏となりました。そもそも「車窓」とは列車の窓のことなのでしょうか。列車(車)の窓から望む景色を含んだ窓枠まで見える映像のことなのでしょうか。
”車窓から覗く”といった日本語は成立するものなのかどうか。行きの車の中での会話でしたので、分けがわからなくなるばかりでした。

0215にご実家で写真の整理をしました。

京都の下宿の荷物をお父さんが運んでくださったので、その整理に写真家の小平氏と行ってきました。
それと前回0201に回収した写真の整理の結果から、随分と展示写真が足らないことがわかりましたので、追加捜索をしてまいりました。おって、その回収品を整理しつつアップしていきます。
今回回収品の目玉は、

・京都の内野氏がメインで使っていたと思われるデスクトップパソコンのデータ(200G)と300Gのバックアップ用ハードディスク4台。
・「東京ファイル」の展示プリントらしきもの
・「ケータイ」のスライド(原版)
・「野ざらし紀行」の176展示らしきもの(前回の整理番号028は間違いかもしれません。
・「2001展」の展示プリント
・お母さんが見た記憶があるとしきりにいっていた「震災・神戸」プリント(記憶のカットはありませんでした)。

以上です。また、前回の写真整理分の詳細は後日アップします。

20080214

ここで一応

ここで一応2005ファイルセレクトの現時点で見つかった写真のアップがすべて終わりましたので、Picasa リンクの一覧をお知らせいたします。
2005ファイルには「A Train Window in Spring」まで掲載されています。
私たちの手元には200804に
ニコンサロンで展示が決まっていた「車窓」(「車窓から」?)の応募用全紙プリントと、インクジェット出力の自家製本2冊があります。
まず、2005ファイル掲載の
「A Train Window in Spring」説明文です。

2005年春、なかなか色付かない近所の桜の木を眺めていた。
毎晩毎晩の天気予報。桜の開花予報や桜前線の様子にそわそわしていた。
もう、待ちきれない。
私は桜を求めて西に向かった。
車窓は次から次へと映し出される映画のスクリーン。
ひとときの駆け抜ける季節を惜しむように眸に焼きつける。

データー
カメラ キヤノン20D
レンズ EF28mmFl,8
mio写真奨励賞2005 審査員特別賞受賞作品(12点)
作品点数12点
mio写真奨励賞2005入賞者作品展 2005年10月22日~2005年11月3日 mioホール

桜をメインに取材をし、セレクトしています。写真現物は見つかっていませんが、
12点のうち2点ニコンのものとかぶっています。mio写真奨励賞応募も12点ですから、同じ写真であると思われます。
2005ファイルに一枚挟まっていたもうひとつの「車窓」の解説があります。これが、何に付随していたものかは不明です。以下

『車窓』

 幼稚園に通っていた幼い子供の頃、何時間電車に乗っても飽きなかった。
電車に乗るときは小さなリュックサックに水筒とお菓子を入れ、靴を脱ぎ座席とは逆向きに座りホッペタを窓にくっつけながら、ただただ車窓から見える外の光景を眺めていた。  電車が鉄橋を渡る時のガタゴトガタゴトという音、踏み切りで待っている人が窓から外を見ている私に気づき手を振ってくれた時は心を弾ませた。

 春、2005年なかなか色付かない近所の桜の木を眺めていた。
毎晩毎晩の天気予報。桜の開花予報や桜前線の様子にそわそわしていた。
もう待ちきれない。私は桜を求めて西へ向かった。

 夏、小学生の頃、夏休みが始まるとイトコ家族が集まって3泊4日の海水浴を毎年いっていた。車窓からは、だんだんと家の数も少なくなり青々した田んぼの稲が見えはじめるといつも行っていた海岸だ。イトコみんなでワイワイ、ガヤガヤ乗る列車はいつもと違って楽しかった。

 秋、あまり人の乗っていないローカル線に乗ってきた。
電車から列車、列車からローカル線
秒から分、分から時間・・・。
ローカル線は、ときを緩やかにさせてくれる。

 旅は人を表現者にさせる。
 車窓は次から次へと映し出される映画のスクリーン・・・。
 日本にはいろんな顔を持つ四季がある。
 ひとときの駆け巡る季節を惜しむように眸に焼きつける。

まだ、冬の取材をしていないのでお見せできませんし具体的な事は言えませんが、冬の四季を意識した作品になると思います。

内野雅文

ここではタイトルが『車窓』です。ギャラリー176のHPにアップしてある「車窓から」のテキストはこれに加筆して冬の説明をしています。
インクジェット出力の自家製本2冊の白いほうをwhite album、黒いほうをblack albumと冗談も交えて呼んでいるのですが、black albumは冬の取材まで済んでいるものでギャラリー176の展示に近かったものであると想像されます。写真から推測しますとwhite albumは「車窓から」の北海道バージョンのようです。というわけで左記の解説文にはもうひとつ別のポートフォリオが付いていたのだと思われます。

「東京ファイル」をアップしました

「東京ファイル」東京造形大学在学時に高梨豊ゼミの課題として与えられた「東京人」を元に始まっています。いつ提出されたか不明ではありますが、「いまどきの彼女たち」と題された作品(写真整理番号016)には東京ファイルから抽出された女性がメインで写り込んだスナップ写真がセレクトされています。それに書かれた本人によるテーマ解説を以下に引用します。

テーマ解説
今や街中どこでも見かける携帯電話。過去16年間で1千万台だった携帯電話が、昨年1年間だけで簡易型携帯電話(PHS)も含めると1千4百万台も売れ、普及率2割目前という数字を達成し社会現象の域を超えてすでに日常化してしまった感がある。その中のかなりの数が若い女の子達で、高校生、専門学校生、大学生、社会人1年生などといった人の層だ。街中の待合せポイントに行くと必ずといっていいほど、彼女達は携帯電話を持っている。どうしてこんなに受け入れられたか考察すると、「ステータスシンボル」「ファッション」「みんながもっているもしくはみんなと一緒でいたい」……。
 ここ近年の流行物、ポケベル、使い捨てカメラ、携帯電話、プリクラ、テトリスJr、タマゴッチ……みんな彼女達が火付け役なのだ。雑踏の中で響くベルの音と彼女達の会話から「いまの日本を左右できるのは私達なのよ」というメッセージが聞こえてきそうでならない。
──GIRLS OF TODAY──いまどきの彼女たち
内野雅文

「東京ファイル」から「ケータイ」への足掛かりを読み取ることができそうです。
「東京ファイル」は199603のコニカでの個展で結実します。展示された34点の作品は2005ファイルセレクトの34点と同数のため同じものであると考えられますが、展示写真そのものはまだ見つかっていないです。また、Picasaにアップしたものの中には印画紙をそのまま製本した課題提出用のポートフォリオからの複写も1点混ざっていて、プリントの質はよくありません。

「カガミ ノ ナカ」をアップしました。

2005ファイルセレクト20点より17点、プリントを大小含め確認しました。2005年のコンテンポラリーフォトギャラリーでの個展で、20点展示したようなので、時期的にいって2005ファイルのセレクトと同じものであると思われます。データに写真集「ケータイと鏡1996-2004」より11点とありますがどのカットか未確認です。
「ケイタイの女」(未発表)→「ケータイ娘。」(200102日本カメラ掲載)→「ケータイ」(「写真2003」つくば美術館グループ展)→「ケータイ1996-2004」(200408ニコンサロン)→写真集「ケータイと鏡1996-2004」(200411)と写真が変化していき、「カガミ ノ ナカ」のシリーズへと派生していった模様です。この作品からリバーサルフィルムに加えてデジカメを使用しています。

「ケータイ1996-2004」をアップしました

「ケータイ1996-2004」の2005ファイルセレクトより45点プリントを大小含め確認しました。ほぼ全紙か半切であるので展示するには十分なボリュームがあります。写真集『ケータイと鏡 Mobile&Mirror 1996-2004』(リコシェ)は200411発行ですので、あえて2005ファイルには「ケータイ」と「鏡」を分けたのかもしれません。左記写真集から35点セレクトしたと書いてありますが、この45点の中に何点含まれているか未確認です。「ケータイ」に関してもセレクトで試行錯誤しているようで、先日入手したギャラリー176展示風景の写真から最後のセレクトを半分ぐらい確認することができますので、この写真からの検討もしなくてはなりません。

※20080416追記 写真家のI氏によると蒼穹舎の太田さんがもうひとつの発売元としてリコシェという名前をもってるという事です。太田さんには未確認ですが。

「空と海への巡礼」アップします

Picasaにて「空と海への巡礼」2005ファイルセレクトのうち27点をアップいたしました。

2005ファイルとは故・内野雅文氏が2005年のmioの審査のために作成したと思われる自らの作品のポートフォリオ(A4 34p)です。20051015製作で、オールカラーでインクジェットプリンターにて出力されています。表紙タイトルには「photo document 1995-2005/Masafumi Uchino」とあり、大学在学中に製作した課題、卒業制作まで含め、全カットをサムネールで掲載した内野写真の集大成的カタログといえます。まだ 「ケータイと鏡」という作品が発表される前の段階のもので、「ケータイ」・「カガミ ノ ナカ」としてそれぞれ別の作品として分けられています。便宜上、「photo document…」をこのブログ等整理段階では「2005ファイル」と呼ぶことにしています。ギャラリー176での回顧展(?)にあわせて2006年に発行された「Masafumi UCHINO: Photo Works 1996-2006」とはセレクトが大分異なっているため、「2005…」といいわけています。

2005ファイルでは40点掲載されていますので、再春館ギャラリーでの展示数40点と同じセレクトであると思われます。そのうち現時点で27点のプリントが大小取り混ぜて見つかっています。

お知らせ

20080214よりブログ形式にて内野雅文氏の写真整理に関する記録を随時お知らせいたします。