20080619
遠い町で起きていること
6 月のはじめに大阪・豊中のギャラリー176で展示された故内野雅文の写真展を見に行った。お小遣いも乏しく日帰り深夜バスでの強行で、腰の具合は最悪であったが、たまにしか行けない大阪を堪能して来た。いまさらブログに書き留めておこうというのは今週西成で起こっている暴動のことをネットで耳にしたからである。ほとんど東京のテレビでは報じられていないようだが、この暴動が起きる1週間ほど前に僕はたまたまあいりん地区に立ち寄っている。
大阪に行ってギャラリーめぐりだけして現実を目にしないのも何だなぁと、思い浮かべたのが大阪環状線新今宮駅から南下してまったく見たことのない日本の風景に打ち震えた二十歳そこそこの学生だった僕の記憶の風景であった。
当時、高校吹奏楽部同窓生が全国に散らばっていて鈍行電車の旅行のたびに各地の1Kアパートをねぐらに日本の中を巡っていた。関西方面では明石のサックスの後輩のアパートを拠点に阪神淡路大震災の神戸の町を歩いた。堺市の中百舌鳥の狂おしいほど中が良かったトロンボーンの輩は変わり者で、強がりで、子供にめっぽうやさしかったが、彼にはdeep大阪というものを案内された。古墳の町で古代の人工池の周辺の集落を指差して、この土気色にかすんだ(ように見えた)トタンの家並みと屋根の重なりに幾重にも立つ錆びて朽ちかけたUHFアンテナの陰影をなにも知らずに深い影としてブローニーに収めた事を記憶している。数年大阪にいただけですっかり関西人気取りで強がりの彼は僕に大阪のドッテリした町を歩くことを進めた。そのとき歩いたのが新今宮から南の風景だ。
天王寺周辺はウブな僕には刺激が強すぎてカメラをかまえるそぶりすら許してくれない気概で部外者の侵入を拒んでいて、強がりの彼がいなければ逃げ出してしまいそうな町の圧力を感じていた。案の定挙動不審の僕は怒鳴られるに足るカメラの構え方をしていたようだ。今思えば怒鳴られたのではなく、声をかけられただけなのかもしれない。なぜかおびえながらカメラをぶら下げていた。撮影散歩の付き合いをしてくれた強がりの彼は用事があるとかでそんな僕をおいて歩くべき方向を指示だけ出して新今宮駅から電車に乗って消えていった。このかつて取り残された駅前で、むせるくらいの労働者の原っぱで、今また事が起きている。
12.3年前の記憶の風景にすがって再度環状線に乗り、新今宮を降りることにした。やはりあいりんの匂いと汚れたコンクリートに転がる黒ずんだ肉塊の暗がりを風のように通り抜けることでしか自分を支えきれない成長のなさも感じる。ここにころがっている親父さんたちとはくらべものにならないが労働ということに関しては何らかの障害に直面している自分がやり切れずに、かつてより速い歩幅で通り過ぎた。南海電車の高架沿いに並ぶゴミとゴミからえり分けたゴミのようなものを商う戦後の闇を想像せるこの生命力とやはり匂いに、店に立ち止まる演技すらできずに早くここを出たいと思った。私淑していた写真家・楢木逸郎氏の『nomads』、妹尾豊孝氏の『大阪環状線海まわり』が頭の中にこびりついていた写真学生はこの町をやはり今と同じそぶりで通りすごしたが、どんなにシャッターを押したい欲望を抱えていたことだろう。あの時ここでカメラを構えていたのなら、そこから先の写真との関わりかたもかなり違ったものであったであろう事がたやすく想像できる。僕はこうしてここまで逃げてきたのだから。
あのときの深い衝撃は今はうすく、やり過ごすことができる。あれから少しばかり年をとったし、開高健の『三文オペラ』や井筒監督の「ガキ帝国」なんかにふれたのもそのあとのことだろう。僕の住む町の川向こうには飛田新地と同じような飲食街の組合のあることを知ったのも、普段使っている駅の周辺に点々と残っている簡易宿舎のわけを知ったのもすべてあのあどけない旅行のあとであった。知らないから撮影できる鈍感さをも持ち合わせていたのならば、より理解しようという気持ちのベクトルが図太い矢印で写真の力としてみについていたのかもしれない。まあ、いまさらではあるが。
この遠い町で起きていることをyoutubeのカクカクざわついた映像から知ることはできるようにはなったが、感じる力は衰えていってしまうのだろう。ほんの一週間前に訪れた土地から増幅していたかび臭い暴力の臭気をわずかばかりでも感じていただろうか。文字にすると大げさになりすぎてしまう。きっと感じていたのだと今日は思いたい。
投稿者 佐原宏臣○サハラヒロオミ 時刻: 22:29
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