20080626

若い写真家の確信


20080624-_DSC7588
Originally uploaded by hiroomis2008
下平氏の写真展に仕事の帰りに向かう。新宿コニカの受付の3人のお姉さんはいったい何をしているのか気になるところだし、フォトプレミオの大賞展だって気になるところだったが、一目散に下平竜矢写真展「星霜連関」の解説文を探した。内野の追悼展の企画で出会って以来の短い間柄だが、トーテムポールギャラリーでの追悼展を希望したのは彼で、内野webサイトのたちあげでは実務でてんやわんやしていただいた。内野の会では一見控えめにたたずむ彼は、ちょっと前までサラリーマンをしていた僕にとっては物足りなく、自ら手を上げておきながら主張してこない身振りに少なからずいらだっていた。一人の頼りなげな青年だった。

昨日もガレリアQの牟田氏に会ったのだが、ほとんど人としゃべらない派遣生活の中では牟田さんとの会話が50%位を占めている。以前も書いたが牟田さんのDMをここしばらく作っていて下平君から「牟田さんのDMどういうことを気にして作ってるんですか?」ってほとんどしゃべりかけたりしてこなかった彼が福添氏の写真展会場の隅で突然聞いてきたことに動揺してなんと答えたのかはっきりしていない。フォントをたくさん使わない、見たいな事を答えた気もする。1999年にこの同じコニカでみた牟田さんの「帰去来」の穴のたくさんあいたクリーム色の壁に飾られたモノクロームを目の前にしたとき感じた何らかの動揺が「星霜…」にはあった。

昨日見た写真のことだけでよかった、のかもしれない。写真を見つめていると若い彼の姿が浮かんだ。知らなかったのならどう見えたのか、もうわからない。写真の深い黒の中には自分のむくんだ姿が時折浮かぶ。様ような祭事のコスプレに身を包んだ人達に対峙する青年は衣装の手元からはみだした腕時計や不釣合いでまじめなめがねのフレームに重い核心でファインダーを覗き込んでいる。ひょうきんなお面に顔を隠した神々のポートレートは見終わった後では一人の人間の表情として僕の頭の中にはインプットされている。関東近郊で執り行われたとされる祭事は僕の住む町の中での出来事でもあるにもかかわらず遠い。けれど、入れないという写真が抱え込んでいた疎外感ではなく、一人の若者が、この国に含まれているというふうに実感していることと、つながっているということに核心を抱いているかのような感覚が、変に僕の胸底に響いてくる。祭りや歓喜を取材する行為は特別ではなく、ありふれている。写真家はその特別な場から破綻や民俗めいた表層を掬い取り、構成し情念を喚起する。アーバス、フランク、須田一政。スナップ写真の意味が社会に伝わらなくなってしまった今、撮影者は常に世間から監視され、存在を許されていない。デジタルな小さなカメラたちはガタイにそぐわない高倍率のバズーカを備え、ほとんどの人がその効力を理解している。そうでないということを主張するために正方形のフォーマットは有効だ。そして、若者は再度、かつて幼いころに属していたホームらしき社会へ去来する。また、居場所を見出せなくなる。僕のことか。

そうではない、核心めいた作為が下平の写真にはみなぎっていて、打たれた。

20080624

flickrからbloggerへの投稿


kumorizora
Originally uploaded by hiroomis2008
flickrってまえまえから聞いてはいたけど、すごいことになっているのかもしれない。日本語使えんなら使わない!!とイキがっていたが、一言語だからこそ写真のタグ検索がグローバルで、世界とすっと繋がっていくことにやっとこ気づいた。グローバルなんて大嫌いだけど、仕方ない。日本の写真は閉塞気味だし、世界に吊り上げられるのは色物ばかりだ。flickrに負けました。
flickrから直接bloggerのweblogには投稿ができる。つい先日windows Live writerを使い出したばかりだけど乗り換えた。如何せん行間が詰まってしまう。何とかならないものか。それと、bloggerから直しを入れると写真のキャプションが消えてしまうよ…。

カメラ雑誌の現在


kumorizora
Originally uploaded by hiroomis2008
日本カメラ2008年7月号に内野雅文の京都の写真がやっと掲載された。生前本人が持ち込んだものである。たった8点の写真であるが、内野のまだ未完であったそのシリーズをそうっと手を差し伸べて新たなる意味へ導いてくれるような、意思のこもった強いセレクトだと感じた。本誌には内野について石井仁志氏も寄稿されているのだが、「型にはまった特別な京都を見出すことはなかった」とあるが内野自身はまだその特別な京都を脱しできていなかったし、それゆえもがくそぶりも選びきられていない六つ切りバライタの写真群からは強くは感じられなかった。内野の見た京都から処世の不変を救い上げる作業を成し遂げるまでが写真家内野雅文本人のやり遂げねばならなかったことだったのだが、あのような終わりを遂げたことはご承知のとおりである。遺作となった京都の残された写真の中には信じがたいくらいの達観したやさしさとともに拭いきれない京都の京都たる表層で覆い尽くされていて、正直不満で生きていたのならばまた、小一時間文句をたれていたのかもしれない。そこを埋める作業をするには4月の追悼展では間に合わず、5月の176では展示途中で日本カメラから戻ってきたプリントをあわせて再度構成しなおしてまでいただいた友長氏も、同じ痒さを共有していたのだと思う。日本カメラ編集長の前田さんとは、どんなお方なのだろうか。この8ページはひとつの模範解答である。天国から見えるだろうか。こうやって写真は選ぶのだよ。実家でお小遣いをもらって機嫌の良いカミさんの緩んだ財布で娘のペネロペと一緒に久しぶりにカメラ雑誌を購入した。

20080619

遠い町で起きていること


20080614-_DSC7273
Originally uploaded by hiroomis2008


6 月のはじめに大阪・豊中のギャラリー176で展示された故内野雅文の写真展を見に行った。お小遣いも乏しく日帰り深夜バスでの強行で、腰の具合は最悪であったが、たまにしか行けない大阪を堪能して来た。いまさらブログに書き留めておこうというのは今週西成で起こっている暴動のことをネットで耳にしたからである。ほとんど東京のテレビでは報じられていないようだが、この暴動が起きる1週間ほど前に僕はたまたまあいりん地区に立ち寄っている。

大阪に行ってギャラリーめぐりだけして現実を目にしないのも何だなぁと、思い浮かべたのが大阪環状線新今宮駅から南下してまったく見たことのない日本の風景に打ち震えた二十歳そこそこの学生だった僕の記憶の風景であった。

当時、高校吹奏楽部同窓生が全国に散らばっていて鈍行電車の旅行のたびに各地の1Kアパートをねぐらに日本の中を巡っていた。関西方面では明石のサックスの後輩のアパートを拠点に阪神淡路大震災の神戸の町を歩いた。堺市の中百舌鳥の狂おしいほど中が良かったトロンボーンの輩は変わり者で、強がりで、子供にめっぽうやさしかったが、彼にはdeep大阪というものを案内された。古墳の町で古代の人工池の周辺の集落を指差して、この土気色にかすんだ(ように見えた)トタンの家並みと屋根の重なりに幾重にも立つ錆びて朽ちかけたUHFアンテナの陰影をなにも知らずに深い影としてブローニーに収めた事を記憶している。数年大阪にいただけですっかり関西人気取りで強がりの彼は僕に大阪のドッテリした町を歩くことを進めた。そのとき歩いたのが新今宮から南の風景だ。

天王寺周辺はウブな僕には刺激が強すぎてカメラをかまえるそぶりすら許してくれない気概で部外者の侵入を拒んでいて、強がりの彼がいなければ逃げ出してしまいそうな町の圧力を感じていた。案の定挙動不審の僕は怒鳴られるに足るカメラの構え方をしていたようだ。今思えば怒鳴られたのではなく、声をかけられただけなのかもしれない。なぜかおびえながらカメラをぶら下げていた。撮影散歩の付き合いをしてくれた強がりの彼は用事があるとかでそんな僕をおいて歩くべき方向を指示だけ出して新今宮駅から電車に乗って消えていった。このかつて取り残された駅前で、むせるくらいの労働者の原っぱで、今また事が起きている。

12.3年前の記憶の風景にすがって再度環状線に乗り、新今宮を降りることにした。やはりあいりんの匂いと汚れたコンクリートに転がる黒ずんだ肉塊の暗がりを風のように通り抜けることでしか自分を支えきれない成長のなさも感じる。ここにころがっている親父さんたちとはくらべものにならないが労働ということに関しては何らかの障害に直面している自分がやり切れずに、かつてより速い歩幅で通り過ぎた。南海電車の高架沿いに並ぶゴミとゴミからえり分けたゴミのようなものを商う戦後の闇を想像せるこの生命力とやはり匂いに、店に立ち止まる演技すらできずに早くここを出たいと思った。私淑していた写真家・楢木逸郎氏の『nomads』、妹尾豊孝氏の『大阪環状線海まわり』が頭の中にこびりついていた写真学生はこの町をやはり今と同じそぶりで通りすごしたが、どんなにシャッターを押したい欲望を抱えていたことだろう。あの時ここでカメラを構えていたのなら、そこから先の写真との関わりかたもかなり違ったものであったであろう事がたやすく想像できる。僕はこうしてここまで逃げてきたのだから。

あのときの深い衝撃は今はうすく、やり過ごすことができる。あれから少しばかり年をとったし、開高健の『三文オペラ』や井筒監督の「ガキ帝国」なんかにふれたのもそのあとのことだろう。僕の住む町の川向こうには飛田新地と同じような飲食街の組合のあることを知ったのも、普段使っている駅の周辺に点々と残っている簡易宿舎のわけを知ったのもすべてあのあどけない旅行のあとであった。知らないから撮影できる鈍感さをも持ち合わせていたのならば、より理解しようという気持ちのベクトルが図太い矢印で写真の力としてみについていたのかもしれない。まあ、いまさらではあるが。

この遠い町で起きていることをyoutubeのカクカクざわついた映像から知ることはできるようにはなったが、感じる力は衰えていってしまうのだろう。ほんの一週間前に訪れた土地から増幅していたかび臭い暴力の臭気をわずかばかりでも感じていただろうか。文字にすると大げさになりすぎてしまう。きっと感じていたのだと今日は思いたい。

20080612

彼女たち(女性、派遣、秋葉原)

20080511-DSC_6991 自分がいったい何に考えをめぐらしているかということを素直に見つめなおしてみなければいけない。理想的な自分の思考経路をブログにアップしていても意味がないのだろう(意味がないことなどないとか、意味を求めてもしょうがないという考えはやめて、あえて意味を求めたいのだけれども)。公開しているが自分に内蔵する経験や知識、感情のネタ倉庫など知れたものであるし、そうであるのならば、何に向けてウェブログを記録しつづけていくのかということを明確にしていったほうが良いのだろう。沸き出でてくる伝いたい思いがあるわけではない。自分の感じたこの日の些細な脳のシナプスの動きを忘れっぽい自分のためにここにとどめておくことだけでよい。

思い返してみなくてもそうなのだが、僕の興味は定まることがなくこのことが人生のステップを小刻みに、かつでこぼこにしている大きな障害なのだが、いつも興味のピントを合わせる前に日常の生活に飲み込まれていく。学生の時分は写真を撮りながら写真とは、写真を撮る事は何なのかを、考える方法や手段すら思い描くことのないままだらだらと思いあぐねいていたし、それからしばらくして社会に少し出ただけで自分の甲斐性のなさを社会のせいにしていたことも思いかえされる。

写真家の梅佳代の姿をNHKにて拝見した。気になってはいたがいい年をしたおじさんが堂々と彼女の写真のことを口にするのは憚っていた。家でかみさんにこっそり話す程度であった。彼女のTvの中での立ち振る舞いは同姓の目線からは多少のあざとさや天然を偽装した身振りを感じないで入られないものなのかもしれないが、発する言葉一つ一つにおじさんは感心してしまった。すべてを自然体として受け入れようとしていくひたむきな言葉に僕は動揺した。それは番組後半の観覧者からの質問コーナーに立った若い女性の問の中にあった「自然体」という言葉に反応しての梅の答えだった。「待ちで見かける人たちを自然体で写したいのだがカメラをかまえる怖さがある」という質問に「何が自然体なのか考えてみる。そこで生まれたいやな、気まずい空気すらが自然体ではないかと思う。」そして冗談交じりに「いつも気まずくなってしまうのなら、それはそれでそんな自分ってすげ-って…」。ここで恥ずかしながらおじさんは自然体という言葉がそこにある存在のありようを示すものなのではないことに気付かされてしまう。当然のことなのだが。梅はするするとかわしていく術を身に付けている。そして、最近、事(自分の写真を報道写真と皮肉交じりに呼んでいた)を見つけ出す眼力がぐんぐん成長していると、自ら言ってのける。ポジティブ過ぎる人にはどうもついていけないのだが、飄々と社会を見つめるすべを発明していく彼女の写真に嫉妬した。

新宿のガレリアQでの写真展「シメントウ」を見ながら彼女たちの写真について写真家の牟田さんとこんなことを話し込んだ。彼女たちというのは牟田さんの奥さんであり、かみさんのことでもある。この二人は写真を発表することからは遠ざかっているが、かみさんが写真学生のころ撮った一枚が今でも気になっていて頭から離れないでいる。エスカレーターの降り口に転がった卵ボーロを撮っただけの写真で、テクニックがあってかなくてか知らないが微妙なシャッタースピードのせいでボーロは見事にどこへも行けずに階段の吸い込まれ口でコロコロと転がっているのがモノクロームの中に写し込められている。牟田さんの奥さんには一冊だけ自家製のブックがあって、三重のおじいちゃんのお葬式へ東京から向かって帰ってくるまでをまとめたものが残っているそうだ。僕らはいったい何を撮っているのだろうと…。写真が現実にリンクするすべを失ってしまっている。秋葉原のあの派遣社員のように。僕も派遣という砦に引っかかって生きている。会社のことは保証人つきの誓約書があるため書くことはない。

20080609

息子の成長、父ちゃんの成長

20080607-_DSC7231 日本の避暑地と呼ばれるようなところにはたいがい国などが経営している公共の宿泊施設がある。公共の宿と俗に言われる簡保だとか国民宿舎だとか、厚生……とは違う、青少年の教育のための施設で、かなり安い。長野県の中には県内各地にそういった施設が点在していて使わない手はない。施設ごとに条件や値段、規制が異なる。たとえば区の所有の 施設なら区民以外利用できないといったような制限だ。僕が利用している川崎市八ケ岳少年自然の家は名前のとおり川崎市の施設である。東京都民の僕も関係なく受け入れてくれるし、値段も変わらない。市民以外の人間の不利な点といえば、予約が利用日の2ヶ月前からとなるとこだ。申し込みも空室確認もすべてネットからでき、一番気に入っている。そして、食事がおいしい。少年の家系では安いほうではないが、親子二人で7500円。一泊二日。食事は4食。すべて込みである。

八ケ岳の南端の編笠山に息子と二人で挑戦してきた。少年の家はこの麓にある。ハイキングの上級版程度の気持ちで立ち向かったのだが、甘かった。3000メートルにとどかんばかりのその山は名前に似つかわしくない険しい表情を最後までくずすことはなかった。

決してなめていたわけではなく、素人の僕なりに予想される限りの装備で登った。編笠頂上からの望む八ケ岳のパノラマをカメラにおさめたところで、どのとんがりがどんな名前をつけられているかさえ子供に説明できない僕には語る資格なんてないのだが、美しいと思ったし、息子をおだてて登りきってよかったと心から感じた。という、頂上での純粋な気持ちを振り切るくらいくだりの長さが身にしみた。上りの激しさを帳消しにした景色も、ひざの異常を抑えきれないくだりの苦しみのバリエーションに「二度と…」と言う禁句を息子の口から吐かせてしまった。

とはいうものの、今日の筋肉痛に息子の成長を期待しないわけではない。おっちゃんの僕ですら成長したような錯覚すらある。

20080605

山に登ろうと思う

20080531-_DSC7151高校には登山部があった。80リットルははるかに超えるのではないかと思われるリュックを背負って、校舎の階段という階段を登るのだ。リュックとは呼ばないかもしれない。当時はやっていた黒ブチメガネの彼は薄汚れた水色のリュックをさげてひたすら歩く。短く太い足には脛毛がうっそうとして、山の土がこびりついてるかのようだった。彼はおとなしいグループではあったが相性があうような気がして、チョコチョコとシニカルな会話をしていた記憶がある。今では名前も思い出せない。

山の話はしたことがない。彼の心の中心であったであろう山に、吹奏楽で急がし過ぎた僕は興味を抱くことはなかった。15年以上経って、仕事で山に登る羽目になって、山を愛する人たちとの多少の出会いが再度訪れたのだが、仕事は続かなかった。山でのカメラマン 仕事は苦しかったが、続かなかった理由ではない。

あの時、山について彼が饒舌に語ってくれたのなら、もうひとつの人生もあったのだろう。山に行かなくなって山のことを聞ける人が近くにいなくなってしまったことを寂しく思う。彼はどうして暮らしているだろうか。

20080604

ブログ投稿クライアントなるもの

20080602-_DSC7227

ブログ投稿がもっと自由な形にならないものか。写真を張り込むにしても思い通りの位置にいかなくて投げ出してしまう。

windows Live writer なるものベータ版がでたようである。早速試してみる。

20080603

若き写真家のブログの閉鎖から

内野雅文氏を慕う若き写真家が自らのブログに毎週、Uchino Masafumi Photoworks1996-2006写真図録より写真を複写して追悼の言葉を載せていた。彼のブログは突然自身の手で閉鎖された。予想もされたことで はあったが、彼を知る人から聞いたところによると内野の写真をブログに載せるのは売名行為ではないかと批判されたらしい。詳細はわからない。コメントに投 稿があったのかもしれない。
内 野は天国だか知らないがあの世で何といっているであろうか。たかだかこんなことで、長いこと続けてこれたブログを閉鎖せざる終えない状況に追い込まれた若 い心の写真家を思うと、痛い。そんなにすばらしく機知に満ち溢れたものではなかったが、ほぼ同世代の抱えるささやかで、どうしようもない直接的な問題をつ づった真っ直ぐな言葉だったと思う。こんなに著作権やら、個人情報やら肖像権なんて騒ぐような社会になっていったい何か新しい豊かなものは生まれてきたで あろうか。そういえば内野の写真はそのことに最も直球で挑んでいったものであった。ハリーポッターでも引用すればブログのアクセス数が上がって、有名人に なれるんですか。写真はたくさん見てもらえるのですか。内野のWEBサイトはお別れ会のころをピークに一日平均50人弱の閲覧で推移している。おろそ かな更新のせいでもあるがまともな写真が人々の目に触れる可能性は著しく低下しているし、社会が写真の内包していた仕組みを必要としなくなってきた。一枚 の写真から放たれる僕たちが持っていた「記憶の島」はシャープネスとインクジェットの波に浸食され僅かばかりの陸地が残っているに過ぎない。