20080612

彼女たち(女性、派遣、秋葉原)

20080511-DSC_6991 自分がいったい何に考えをめぐらしているかということを素直に見つめなおしてみなければいけない。理想的な自分の思考経路をブログにアップしていても意味がないのだろう(意味がないことなどないとか、意味を求めてもしょうがないという考えはやめて、あえて意味を求めたいのだけれども)。公開しているが自分に内蔵する経験や知識、感情のネタ倉庫など知れたものであるし、そうであるのならば、何に向けてウェブログを記録しつづけていくのかということを明確にしていったほうが良いのだろう。沸き出でてくる伝いたい思いがあるわけではない。自分の感じたこの日の些細な脳のシナプスの動きを忘れっぽい自分のためにここにとどめておくことだけでよい。

思い返してみなくてもそうなのだが、僕の興味は定まることがなくこのことが人生のステップを小刻みに、かつでこぼこにしている大きな障害なのだが、いつも興味のピントを合わせる前に日常の生活に飲み込まれていく。学生の時分は写真を撮りながら写真とは、写真を撮る事は何なのかを、考える方法や手段すら思い描くことのないままだらだらと思いあぐねいていたし、それからしばらくして社会に少し出ただけで自分の甲斐性のなさを社会のせいにしていたことも思いかえされる。

写真家の梅佳代の姿をNHKにて拝見した。気になってはいたがいい年をしたおじさんが堂々と彼女の写真のことを口にするのは憚っていた。家でかみさんにこっそり話す程度であった。彼女のTvの中での立ち振る舞いは同姓の目線からは多少のあざとさや天然を偽装した身振りを感じないで入られないものなのかもしれないが、発する言葉一つ一つにおじさんは感心してしまった。すべてを自然体として受け入れようとしていくひたむきな言葉に僕は動揺した。それは番組後半の観覧者からの質問コーナーに立った若い女性の問の中にあった「自然体」という言葉に反応しての梅の答えだった。「待ちで見かける人たちを自然体で写したいのだがカメラをかまえる怖さがある」という質問に「何が自然体なのか考えてみる。そこで生まれたいやな、気まずい空気すらが自然体ではないかと思う。」そして冗談交じりに「いつも気まずくなってしまうのなら、それはそれでそんな自分ってすげ-って…」。ここで恥ずかしながらおじさんは自然体という言葉がそこにある存在のありようを示すものなのではないことに気付かされてしまう。当然のことなのだが。梅はするするとかわしていく術を身に付けている。そして、最近、事(自分の写真を報道写真と皮肉交じりに呼んでいた)を見つけ出す眼力がぐんぐん成長していると、自ら言ってのける。ポジティブ過ぎる人にはどうもついていけないのだが、飄々と社会を見つめるすべを発明していく彼女の写真に嫉妬した。

新宿のガレリアQでの写真展「シメントウ」を見ながら彼女たちの写真について写真家の牟田さんとこんなことを話し込んだ。彼女たちというのは牟田さんの奥さんであり、かみさんのことでもある。この二人は写真を発表することからは遠ざかっているが、かみさんが写真学生のころ撮った一枚が今でも気になっていて頭から離れないでいる。エスカレーターの降り口に転がった卵ボーロを撮っただけの写真で、テクニックがあってかなくてか知らないが微妙なシャッタースピードのせいでボーロは見事にどこへも行けずに階段の吸い込まれ口でコロコロと転がっているのがモノクロームの中に写し込められている。牟田さんの奥さんには一冊だけ自家製のブックがあって、三重のおじいちゃんのお葬式へ東京から向かって帰ってくるまでをまとめたものが残っているそうだ。僕らはいったい何を撮っているのだろうと…。写真が現実にリンクするすべを失ってしまっている。秋葉原のあの派遣社員のように。僕も派遣という砦に引っかかって生きている。会社のことは保証人つきの誓約書があるため書くことはない。

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