20081004

息子の捻挫とシューベルト


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Originally uploaded by hiroomis2008
2年生の息子の学芸会生徒鑑賞日の今日、父親ぶって「今日はどうだった?」と聞いてみたのだが、返事は「かーちゃんに聞いて」であった。それでも問いただし、ちゃんとできたかの問いに「だいたいね」との回答を得た。先週の木曜日、彼は前捻挫をした。携帯に見知らぬ固定電話の着信が残っていたのは学校からの連絡であった。1.5倍はふくらんだ足の息子に問いただしたが捻挫のわけは言わなかった。土曜日にケンケンする息子に付き添って近くの児童館のお祭りへ行った。多くの大人に包帯の足について心配される彼を見て、なかなか顔が広いことを知る。理由は言わなかった。そんな彼を近くで見ていた女の子が「けんかしたんだよ」と我慢できずにつぶやいた。そこからはじめてわけを語り出したのだが、相手が悪いと言うことを主張するのにムキになっている彼を感慨深く眺めていた。
シューベルトの「四つの即興曲」の2番(D935 No.2)。シューベルトがどんなおじさんであるか知らないけれど、佐藤真の映画「OUT OF PLACE」の最後にバレンボイムがピアノで弾いていた曲だ。上映された当時、見に行くことができなかった。佐藤が外国に目を向けていることに疑問を感じていたし、「阿賀に生きる」のような映像をフィルムに収めることができない歯がゆさを映画に見てしまいそうで怖かった、というのがおそらく当時の理由である。
アテネフランセでの回顧上映で「阿賀に生きる」を10年ぶりに見た。前はかみさんと見に行ったらしいのだが、記憶にない。けれど、ずっと引きずっている。10年前僕はこの映画に何を見ていたのか思い出せないほど新鮮で美しい映像だった。そして、やっと「OUT OF PLACE」を見た。美しい映像はなかった。美しい映像を希求する佐藤監督のもがきを見た。美しい映像とは風景である必要もないし、条件を満たした光でもない。写ってしまった映像である。佐藤さんを引きずって10年くらい僕はもう生きてきた。ドキュメンタリーとフィクションの境界の不在を常に主張していた方である。境界があるとするならばドキュメンタリーは写ってしまった美しい映像のためにフィルムをつなぎ合わせることで、フィクションとは美しいセリフのために撮影しフィルムをつなぎ合わせることではないか…と、10年前の昔話をしながら饒舌になってかみさんに言ってみた。
「OUT OF PLACE」はエドワード・サイードの自伝のタイトルからとったもので、邦題が「遠い場所の記憶」。よい響きの言葉だ。直訳すると〈場違い〉。「何で私が遠く離れた国のサイードを…」という問いかけであり、結論でもあるナレーションで始まる「OUT OF PLACE」は今の僕にとって、前日の不摂生もあって多少眠たい。上映後のトークショーで羽仁進氏がこの映画について「論理的思考を映像表現のなかで試みた作」と評し、会ったことのないまま亡くなった佐藤氏に対して「多くの人たちのことを考えている人」だといっていたことに納得した。10年前「阿賀に…」を見たときのように僕には「OUT OF PLACE」はわからないことが多すぎるのだろう。けれども、映画最後のシューベルトのピアノが頭にこびりついている。息子の捻挫で膨張した足の映像とこのピアノの音はこれから10年リンクしていく。

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