20080723

まずは忘れないためにグーグルカレンダーに


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Originally uploaded by hiroomis2008
グーグルのカレンダーに最近は命日を入れることが多くなった。そんなに周りがばたばたと倒れるような年頃ではないが、不精な僕には故人を忘れない方法としてグーグルが助かっている。死んでしまう前にたくさんの事を聞けなかったことをあれだけ悔やんでも、次の年には亡くなった季節さえ曖昧になっていく。幾度と記憶をリフレインし、自分の生に織り込んでいくのが人の性であるのだろうけど、僕は忘れてしまう。やっぱり不精に尽きるが、そういう仕組みを具え持っているとポジティヴに思ってみてもいい。グーグルには「毎年」という設定があるから、来年の3日前に携帯メールでお知らせしてくれる。具え持った能力に少し抵抗してみる。
仕事帰りの図書館でアサヒカメラを見る。写真家、柳沢信氏の追悼文を眼にして、氏がすでにいなくなってしまっていたことを忘れていたことに気づいた。寄稿された柳本尚規氏はゼミの先生で、多くの写真に関わることを学んだし、当時は反発したりもした。柳本さんに見せてもらった写真集の一つに柳沢信「写真」があった。それからずっと写真のことを思うたびに頭から離れない。困った写真だ。はっきりと柳沢氏の写真を言葉にしたことなどないので、ついて離れないとしか言いようがない。そして追悼を寄せた柳本さんの言葉は、僕にとってひりひりと痛いものがある。いつもながら。
亡くなったばかりの評論家草森紳一氏の言葉を引用して柳沢氏の写真を掬い上げる。「「……一見何ということもない写真であるけれど、(略)しみじみと迫るものがある。この『しみじみ』は曲者である。この曲者こそ、『写る』ということである。/北風がやってきて暗くなった漁村。この暗さに、柳沢信はなんら象徴を求めはしないだろう。(略)彼の目をひいたのは、北風の暗い空の下で、岸に打ち寄せる波であった。その波に彼の心は(略)敬虔に構えた。ここにあるのは波らしい波ではなく、波の環境が誠実に写されているのだ。(略)その波のそばにたつ家並みは、そのような岸辺を波が洗っている時、暗雲の下でどのように静かにたたずんでいるかを、柳沢は誠実に写しとっているのだ。ここには『写る』がある。自然の時間、人間の時間を奪う、しみじみとした冒険がある」(「カメラ毎日」1966年2月号)」
「…つまり、写真が被写体とカメラと撮り手の三つからなるならば、被写体のすでに持っている意味を言葉で説明できるものは視覚的には無視しておけばいい、また撮り手の思想や個性という得体の知れない不確実なものは放っておけばいい、…」といって柳沢さんの「写真の機能を『観察』という機能だけに絞ってカメラを使ったほうが、被写体が語りかけてくる言葉を印画紙の上でより自由に語らせることができるのではないか」という主張を説明している。これは柳沢さんだからできるのであって「並みの写真家は言葉の手助けを得てやっと写真を表し、その言葉の部分を読者になぞってもらって「作品」として流通させているのが、今なお変らぬ実態である。」とまで…。
「柳沢さんの写真を好きだという人たちは、自分こそが写真の何たるかを理解できているものの一人だと自負を持った。」
抜き出すと暴言のようだが、それくらい強い愛情であると感じた。
そこまで立ち行かない僕はあらためて本棚の写真集に目をやろうとしている。まずは忘れないためにグーグルに書き込んだ。

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