20090123

沖縄と写真と嘘


20090114-_DSC0587
Originally uploaded by hiroomis2008
東京近代美術館「沖縄プリズム」展のチラシに誘われ足を運んだ。風にたわむ草ムラの写真が銀地に無光沢のブラックで印刷されている。写真家の名前は伊志嶺隆。学生時代、四谷にmoleというギャラリーがあったころ、写真をはじめたばかりであったはずだが、ギャラリー内の小さな書店で「光と影の島」という小さな小冊子を購入した。名前も知らないその写真家が伊志嶺であった。正方形のブローニーカメラでモノクローム。当時、自分もそのフォーマットにこだわっていたから、なのか、沖縄らしくもない、それでも光が乱反射したそのまぶしい風景と遠くを見つめる人たちの荒れた肌のモノクローム。引越しの時や本棚の整理を気まぐれにはじめるたびにその小冊子をながめかえしていたように思う。
展示での伊志嶺の写真には「光と…」からのものはなかった。展示物の多くは写真家の写真で占められていた。「沖縄」+「プリズム」。写真家は沖縄を通して時代を感じてきた部分が大きい。各時代に降り注がれ分散した光が沖縄というプリズムを通して一点に集約していく、といったような意味合いに受け取れたし、展覧会の名前としても気が利いたものであったが、答えを先に言ってしまえば、物足りない展覧会であった。島の光が多くの写真家や美術家、研究家に収集され、盗まれ、捕獲された沖縄の塵の集積から現代のこの湿った時間にもっともっと返ってくる匂いというものがなかったのだろうか。伊志嶺の写真すら光の激しい輝きを封じ込まれているようであったし、東松照明らの有名な写真群も沖縄を飾り付けるに取りそろえられた写真セレクトであったように思う。別の見方もできたのかもしれない。沖縄は戦後を背負いつづけ、その現実を多くの芸術や研究の中で消費され消化されてきたのだろうが、この展示はそうではない方向も目指せたのかもしれないとも感じた。部屋の壁に伊志嶺の写真の載ったそのチラシを飾り、期待を膨らませすぎたということもあるのかもしれない。
「沖縄プリズム」をみる直前、僕は急遽沖縄に行くことになった。
沖縄で暮らしていた妹はこの島にどんな光と影を見ていたのだろう。最後に交わした会話は彼女が母親の見舞いに実家に戻ってきていた2008年6月。病院に車で送ってもらう口実で、彼女の沖縄での暮らし振りでも聞こうかと考えていた。愛想もなく断られたのだが、それが最後だった。兄弟には会話らしい会話もなく、僕は彼女のことを何も知らなかった。彼女にはカメラを向けることができずにいた。伊志嶺のチラシを見ながら沖縄を撮影しに行く口実で、妹のことを写真に撮らないといけないと感じていた。そんな矢先であった。
豊見城の火葬場の入り口には本土では冬が始まるというこの季節にピンクの花が咲き乱れた大きな木が太陽に照らされ車の窓越しに光をにじませていた。一緒に行った叔父は葬儀屋さんから聞いた沖縄の葬式のしきたりや、高速からあちこちに見える亀甲墓のなかに火葬しない遺骸を次の親族が亡くなるまで安置し、入れ替えに長男の嫁が処理して骨のみにして埋葬する話を火葬する間、骨付き肉のたっぷりのったそうきそばを斎場前の飲食店で食べながらしきりに語っていた。
沖縄の写真ですぐに思い描くもののひとつに高梨豊氏の写真集『初国』にある、収穫したとうきびの並んだ作業場で二人の女性がスイカを抱え、視線もうつろに何かの準備をしている夏の写真がある。逆光にほんのり浮かぶ女性は美しさの中に歳相応の深いしわを表情に蓄え、それでいて何かを発するわけでもない。写真家の言葉を代弁するそぶりを封じ込めたそのサジ加減は、見るものを宙に浮いた感覚に漂わせる、本当に心に残る映像だ。「沖縄プリズム」の後に企画された高梨さんの「光のフィールドノート」展にもその一枚は選ばれてあった。
多くの本土の写真家は沖縄に出向き、ステレオタイプな異国感を搾取し利用していく。そんな本土の人間の見え透いた視線の中にも、沖縄はねじこんだモノクロームを凌駕するまぶしい風景を表出させる。沖縄の人間はそのまぶしさに気付くことなく当然のものとして日々パチンコなんかをしながら暮らしているのだと思うが、伊志嶺は本土に渡り自分の生まれた島の光のまぶしさに気付きフィルムに定着させる必要を感じた、のだろう。沖縄プリズムはそのことだけに焦点を当てるべきであったし、それに見合うタイトルであったように感じる。沖縄に関係する作家的な事象を寄せ集めることではなく、幾重の視線を通した写真から立ち上る沖縄の現実を照射することに意味があったはずだ。展示されていた他の美術作品や民芸運動の資料のよそよそしさは今の芸術の現在性の希薄さを露呈することになり、並列して選ばれた沖縄の写真群はその仕組みさえも封印され、濃淡の平面構成にしかなりえなかった。そもそもの写真の機能を復権させる力を秘めた企画であったはずであるという僕の妄想は展示を目の前にしてしぼんでしまった。高梨さんの「光のフィ…」パンフに書かれた増田氏のレポートにしても写真界の中での高梨豊のことが語られ、目の前の現実がまったく関係のない世界での出来事のようにリンクしない。高梨さんの写真は方法論やテーマとしての都市にそくして語られることがほとんどで、本人も自覚して自分の写真家としてのふるまいをその位置に置いてきたのだと思われるが、僕には高梨さんが生きたその時代のカメラの前の世界にどんな顔をしてシャッターを押していたのかということが写真を見ることであると強く感じる。写真界云々のそんなことは、何ら写真に写っているモノとは関係のないコトで、写真とは現実にカメラを向けることでしかないということに唯一現実との接点があるのではないだろうか。
「写真は生きていく人間の意識といっしょに走っていると思う」
「光のフィ…」展入口の壁に刷られていたこの言葉にすべては込められている。
妹の部屋のベットの横のカラーボックス上には牛腸茂雄の『幼年の時間(とき)』が立てかけられてあった。幼い時分はけんかばかりで、いい歳しても話もできなかった妹が写真に関心を向けていたことに驚き、彼女について何も知らなかった自分に後悔した。
「光と影の島」の最後の年譜をみて、伊志嶺氏が高梨さんの事務所にいたことをいまさら知った。この小冊子は交通事故で47歳でなくなった氏を追悼して1993年に編まれている。

20081123

僕の図書館


20081122-_DSC0301-7
Originally uploaded by hiroomis2008
僕の図書館の喫茶が今度のクリスマスで閉店する。この街に越して以来足繁く通った図書館だ。初めてここへ来たときに図書館で軽食を注文できることに強く心を打たれた。昼時ともなれば館内に焼きそばの香りが充満し、本にとっては決してよい環境であるとはいえないが、そのにおいに誘われて休みのたびにカメラをぶらさげて通った。正午まではモーニングがあり、トースト2枚にゆで卵とコーヒーで300円の優雅な時間を過ごせた。朝寝坊だった僕はよく12:00ぎりぎりに駆け込んだ。ほんとうに狭い狭いキッチンに、ちょうど10年前の当時は二人のおばさんがモクモクと働いていていた。静かな館内に焼きそばを炒める音だけが響く。二人の中がギクシャクしている雰囲気を醸し出している時期もあったり、どちらか一人しかいない時期もあった。そんなときは心が疲れているのではないかと勝手な妄想で心配したりした。生姜焼き定食やハンバーグ定食なんてメニューまでかつてはあった。そのうちおばさんが一人やめて、残ったおばさんが調子が悪い(それも勝手な想像であるが…)ときはよく店が閉まっていた。注文が少ない午前中はいつも狭いキッチンに腰掛けて静かに本を読んでいた。
僕が会社を辞めてふらふらしているときは、家から外に出るきっかけをいつもこの図書館で見つけていた。10年も世間話らしい会話もすることなかったのだ。
カウンターの下に貼られた営業日を記入した小さなカレンダーに店が終わってしまうことがそっと書いてあることに気づいたのはかみさんだった。最近は節約生活で外食することも少なくなっていて、図書館での食事の回数もめっきり減っていた。今日の昼食を久しぶりに子供らを連れて図書館でとることにした。
思い出してみると子供が生まれる前からここでおばさんの絶品うどんを食べ、コーヒーをすすっていた。7歳の息子が生まれたばかりのころ、僕が仕事もせずにカメラをさげてA型ベビーカーを押して何処までも散歩に出かけてく日の朝もここのうどんから始まっていた。うどんであれば哺乳瓶のチビと食事を分けることができた。図書カードを作ってあげてチビが分で本を探すようになっころには、何も言わなくてもプラスチックの味噌汁茶碗が机のうどんの横に置かれていた。何度か息子はガラスのコップを割ったし、夫婦で子供を目の前にここで諍いを起こしたりもした。二人目もここのうどんがお気に入りだ。いつもおばさんがそこにはいたのだなぁと今感じている。天気の話さえもしたことがないというのに、おばさんも年をとったし、僕もすっかりメタボになった。
秋のはじめ、蚊の残党が返却カウンターの白いテーブルの上をヨイコラ飛んでいた。返却しようとカウンターに置いていた本をとっさにつかみ奴めがけて一発食らわしたところ、その本の上に追い打ちをかけるように面と向かって座っていたカウンターのお姉さんの平手が加わった。僕とカウンターのお姉さんの視線はつぶされたであろう奴に覆い被さった本とお姉さんの手の甲を見つめていて、しばしの沈黙でお互い目があった。「あはは~、こんなこと図書館の本でしちゃいけないんですけどねぇ~あはは…ははは」お姉さんは僕のおかげで本で蚊を殺す羽目になってしまったのだが、少し気を揉んで、同僚に聞こえるように結構通る声でつぶやくと僕の顔もつられてにやついてしまった。この地域の図書館は数年前から業務が民間に委託されてからは見慣れない顔が多かったのだけれど、喫茶のおばちゃんだけはずーっと変わらなかった。その日、共犯のお姉さんは老婦人が本を探しに来た際も「ばかのかべは今は貸し出し中ですけど、同じ筆者のチョウばかのかべなら在庫ございますよ!」って、やっぱり通る声で受け答えしていたものだから、婦人は周りを気にしてきょろきょろしていた。
この愛する図書館の最寄りの商店街が昨日深夜テレ東のモヤモヤスポットに選ばれていたことを誰かに言いたくて仕方がなかったのだけれど、朝っぱらからかみさんに言ってみたらリアクションがなくてめげた。さまぁ~ずが引っかかったお店のご主人も「深夜番組だからねぇ~。じいさんばあさんは見ないよ…」って近所の常連に嘆いているのを小耳にはさんだ

「てれびのスキマ」

20081118

煙突の煙のゆくえ


20081114-_DSC0126-18
Originally uploaded by hiroomis2008
久方ぶりに宿題を申し受けた。今度あうときまでに一本の映画を見ておくようにというモノだ。今度あうというのは、毎月1回四谷のギャラリーで開かれている写真展で、また来月、ということだ。
息子が生まれた当時、環境測定という仕事をしていた。もう沢山のことを忘れてしまったが確か環境測定には大きく分けて二つの分野があって、「発生源」ともう一つは文字通り「環境」。僕は発生源の部署に所属していた。「環境」とは発生源から放出される何らかの公害物質による大気や河川などの一次的な汚染を測定する。そんなに体は汚れない。「発生源」はその放出される物質そのものを測定する業務である。つまり、清掃工場の煙突に登ったり、アルミの溶解炉の上でサンプリングをする。体が汚れる、結構しんどい仕事だった。先日、その職場の同窓会と呼ぶにふさわしく、やめた人間から現役のヒラから部長まで集まって当時の思い出話に花が咲いた。7歳の息子が生まれて職を離れたので7、8年前のこと。その頃ちょうどニュースステーションのおかげで環境業界ダイオキシンバブルの真っ最中であった。もちろん僕らのもっぱらの仕事はそのダイオキシンのサンプリングで、全国各地をハイエースキャラバンで巡り巡った。ダイオキシンは塩素が含まれているモノが燃えればどこからでも発生する。人間が燃えてもだ。会社のお得意さんに火葬炉メーカーの大手さんがいて多くの火葬を測定サンプリングした。火葬場の職員さんと共同作業で荼毘にふされるご遺体から、バーナー着火とタイミングをあわせ、焼き上がる時間をおもんぱかり採取する。
当時図書館で見つけた本にその名もそのまま「火葬場」という研究書があった。何気なく借りたものの、研究書らしからぬ序章に心が引かれた。その研究者は火葬を考えるにおいてまず、「小早川家の秋」の1シーンに出てくる火葬場の煙突をつきとめるところから筆を始めていた。
内野雅文の追悼の折々で永井さんとはあうことになった。酒を飲み過ぎるととんでもなくだめな輩になってしまうのだが、その博学とうんちくぶりには「ウザい」を超えて悲しみを覚えるくらいで、語り出したらとまらない。最初は場を読めないマシンガンにうんざりしていたのだが、ここ最近写真展会場で月に一度会うようになって、彼の情熱を許せるようになってきた。どうやら永井さんは写真家らしい。なんだか彼の写真を見てみたい欲がモクモクとわいてきている。夜の渋谷や新宿で、スナップを続けている、らしい。最近はいい年をしてモヤモヤスポットを歩いては昼間にも写真を撮るようになった、らしい。その永井さんが小津の映画を見るように強烈に推してきた。どうも僕は避けていたようだ。ゴダールだって見たことがない。ゴダールやらオヅやらを口にしてわかった物言いをする人たちを避けていた。そんな僕に永井さんは年齢とともにわかることが多くある映画だ、といってオヅを大声で勧めるのである。こどものしつけや教育で悩み、夫婦げんかの末以後家族4人のすべての食事を作る羽目になった君だからこそわかることがある、と豪語する。山に登ったこともないのにヤマケイを読んで八ヶ岳についてのうんちくをたれる永井さんのことだが…。
TSUTAYAの半額クーポンで借りた小津安二郎「小早川家の秋」は4:3でトリミングされていてちょっと悲しかった。

「煙のゆくえ」失われていくものたちへのノスタルジー

『火葬場』浅香勝輔, 八木沢壮一(大明堂/1983)

20081103

さまぁ〜ずとスナップ写真2


20081031-_DSC9803
Originally uploaded by hiroomis2008
写真展を見に谷中に行く。学生の時以来だ。町を少しだけ歩いた。霊園を過ぎるとぞくぞくしたあのときの街の感じが伝わってきた。初めて何も知らずに訪れ感じた雰囲気を残している希な街だ。統一されたレトロ調の木製看板や芸能人の写真を張り巡らせた惣菜屋さんの活気を失わぬよう努力続けている商店街の手本である感じは何処でも変わらない。所詮なじみにはなれずに通り過ぎるなら、おいしくって雑多であればいい。若者やおしゃれな店がその香りをかぎつけて街を変えていくのも、商店街の永続に役立ては文句はない。けれど、例のモヤモヤ感はないのかもしれない。「サマーズ」を「さま~ず」に前の日記で訂正したのだけれど、「さまぁ〜ず」が正式コンビ名のようだ。さまぁ〜ずが歩くにはふさわしくないというだけのこと。そんな町のチョイはずれのガラス工房で中藤毅彦氏の流氷の写真をみた。まず写真が先にあってその写真にあわせて工房のお姉さんがガラスの額を制作したとのこと。写真が小さく寂しかった。粒子の見えない中藤氏の写真は柔らかだった。写真とガラス細工という行為があからさまに違うということを当然のことではあるが強く感じた。
ガレリアQの牟田さんに紹介された南谷洋策さんのDMを現在考えている。現役の医者でありながら写真を発表し、同時にコントラバス奏者として生きている。打ち合わせでは気長に僕ののんびりした写真セレクトにつきあっていただいた。いつも他人の写真を見て気になることはこのカメラを構えた人間がどの立ち位置で、目の前にある世界と対峙しているのかということである。医者であるということとコントラバスを弾く行為も併せて写真を撮るということの一個人の視点になりうるのではないかという南谷さんの心意気に深く感銘している(こんなわかりやすう物言いではないが…)。それでも立ち位置など関係がないと主張する写真には一本の筋を見つけることができるが、立ち位置に心が及んでいない写真には辟易する。
今、机の上にあるポルトガルでのモノクロームのポルトガルである理由を尋ねたらフェルナンド・ペソアという詩人の生きた町をたずねたかったのだそうだ。「微明」というタイトルは老子の言葉から来ている。写真に写り込んだモノとコトと濃淡と南谷さんの照射する言葉から、脳みそのシナプスをつなぐ道を何とか偽装でもいいから作ろうとしている。

老子/微明第三十六
將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
【まさにこれを歙(おさ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。まさにこれを弱くせんと欲すれば、必ず固くこれを強くし、まさにこれを廃(はい)せんと欲すれば、必ず固くこれを興(おこ)し、まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれを与う。これを微明(びめい)と謂う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強に勝つをしる。魚は、淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。】
http://books.google.co.jp/books?id=oHNeeUz6IaIC&pg=PA123&lpg=PA123&dq=%E5%BE%AE%E6%98%8E&source=web&ots=yxLr6ymgUy&sig=qxxUXkgmnUOE6clWtStmdm5g9Bw&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=8&ct=result#PPA123,M1
の訳がわかりやすかった。

「不穏の書、断章」フェルナンド・ペソア(澤田直 訳編・思潮社)の解説によると「われわれを震撼させるこの無限の空間の沈黙を、ソレアス(ペソアの異名)は、宇宙の広大さにではなく、日常のごく些細な場面のいたるところに見出すのだが、それを彼は、円環を閉じることを無意識のうちに拒否することで逃れようとし、そのことによって、まさに、〈無限〉そのものをそこに宙づりにしつつ現出させるのだ。」と書かれている。まさに〈モヤモヤ〉ではあるが、僕は正直ペソアに(そして僕自身に)、もっと外へ出ろよ!!若造、っていってやりたい気分になるくらい、彼(ペソア)が解説のいう「円環」を閉じ忘れている気がしてならなかった。

 …ところが、ついうっかりして、行動を起こしてしまうことがある。私の仕事は意志の結果ではなく、意志の弱さの結果なのだ。私が始めるのは、考える力がないためだし、私が終えるのは中断する勇気がないからだ。つまり、この本は私の怯懦(きょうだ=おくびょう)の結果なのだ。…(P136、解説)

図書館で借りたその本には二つの付箋が残っていた。その一つ

62
もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子に座ったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。魂が悲しむことさえしなければ。(P39)

手元にある南谷さんの六切りのバライタを眺めながら難問に顔を引きつらせてみるのだが…、そんなことより写真展会場でのコントラバスの演奏を聴けば解決することなのかもしれない。楽しみ。

中藤氏の小さな写真をみた後、都区内フリー切符を購入していたついでに秋葉原に降りた。金曜夜の秋葉原で小さなデモ行進が行われていた。カメラを向けられることを意識したコスプレの彼らを撮ってはみたが何も見えなかった。が、しかし、カメラをナップから出していた弾みでうっかりしてスナップ写真を撮ってみてしまった。内野雅文が夜に徘徊した街の人種とはちがう秋葉原に光源を探した。ちょっと震えた。どうやら僕はスナップ写真を初めて撮ったようだ。スナップ写真について語る言葉など全然持ちあわせていないことが少しだけわかった。

20081023

ヤマユキ


20081012-_DSC9688
Originally uploaded by hiroomis2008
山に登る準備をしている。年甲斐もなく誕生日プレゼント(自分へのご褒美)を前借りして登山靴を新調した。派遣先から帰り道である多摩川もすっかり暗がりになってしまったので一昨日から残業を1時間ほどすることにした。靴代の足しになればよい。そのくらいの気持ちであったが、心が揺らいで仕事場の僕のエクセルの予定表に残業代を管理する計算式を組み込んでしまった(たいしたものではないが)。組み込み終わったとたんエクセルがフリーズしたことで、なんとかお金の虫の疼きを押さえ込んだ。けれど自動保存のアドインをずいぶん前に入れておいたことを思い出し、保存されていた計算式のバックアップファイルを探し当ててしまった。些細なことだが心が揺れていた。残業は心も社会もダメにすると憤ったことも仕事を辞めた理由だったような気がする。競争をあおる社会にうんざりしたはずだ。大げさに言えば。
今日、ガレリアQ の牟田さんに「サマーズ」ではなくて「さまーず」であることを注意された。どうでもいいことではあるが心にしみこんだ。靴慣らしのためにいつもならギャラリーのある新宿三丁目には四谷で丸ノ内線に乗り換えるところを永田町で挑戦してみたのだが、乗り換えまで650mの案内にまだ硬い登山靴に覆われたつま先はすっかりめげてしまった。けれど、うれしいDM作成依頼をうけた。
土曜の朝4時にレンタカーで東京を出発して八ヶ岳の硫黄岳を目指す山行き。山行きという言葉の響きは美しい。どうも辞書にはない言葉のようだ。いつ頃から使われているモノなのか知らないが、最近覚えた。
道行き、雲行き、先行き、成り行き、売れ行き、地獄行き
山への厳しい道行きを引っ掛けて作られた造語なのかもしれない。
今回の山行きは学生時代を暗室で一緒にすごした面々に声をかけた(どんよりとした反応であった)。10年強たって、お互いの属している世界について確認しあってみたいという僕の勝手な思いにつきあっていただけるわずかなメンツと久々に連絡を取り合い段取りをしててんやわんやなのだが、心地よく疲れている。学生の時分20穴ファイルにして作った「10年後」という知人を撮影したポートレイト写真の束がこのキーボードの置かれた机の奥にしまってあるはずだ。10年後また写真を撮るつもりでリングファイルにした。今でも携帯に登録されている人間は一人しか思い浮かばない。
硫黄岳には7歳二人と4歳3歳のチビどもも連れて行くことにした。無理はしないが、よい景色の場所で、できれば頂上で集合写真を撮ろうと考えている。