20080702

写真の果て


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Originally uploaded by hiroomis2008
写真の果ては粒子であると思っていた。プリントは少なくとも画面の中心に粒子がカチッと現われて、白から黒にいたるまでの濃淡を存分に使っていれば美しいし、それでモノとしての深みが出るような気がしていた。モノクロームのプリントのことである。学生のころフィルムセンターでの企画展ではじめて中平卓馬の60年代のプリントを見て慄いた。当時の印刷物たちからは心のブレと光の荒々しさは感じたが、そこで見た現物にあった美しさは知る由もなかった。
DxO opticsという現像ソフトのプラグインとして発売されているFilmpackはデジカメデータをフィルムのニュアンスで補正してくれる。20種類くらいの擬似フィルム補正データがあって、色調、コントラストだけでなく粒状感も各フィルムとフィルムサイズの特徴を再現する。T-maxやNeopanもある。インクジェットでプリントしてみると粒子の美しさを感じることができる。精緻に比べたわけではないが、もしかすると、「果て」を越えてしまっているのかもしれない。もしかするとであるが。
日曜日、母方の祖父の三回忌で静岡の実家に帰った。(今月半ばで生涯を終えるオンボロマツダデミオの最期の長旅であった。)ここ数年、親族の葬儀が続き、実家での写真は葬式ばかり。じいさんの本葬以来撮影を続けている。最中、あまりにパシャパシャ撮っていたので、かみさんからは「業者じゃあるまいし」とたしなめられたが、ついには喪主(母の兄=オジ)から経費が出た。即日、子供のときから使っていた今はなき「光写真館」へ現像に出し、アルバムにつめ親族皆でじいさんの亡骸をながめ感慨にふけった。不思議な経験をした。
通夜の晩、飲み助たちが帰った深夜の納棺の済んでいないじいさんの横にオジがちょこんと背を丸めて胡座をかいて座っている。どんよりとした瞼でその黄色くなった顔をぼんやり眺めている。遠くから体の悪い小さくなったばあさんが杖に手をかけ台所のいすに腰掛け二人(じいさんとオジ)を見ている。僕もじいさんの顔を拝みにきたのだが、時計の音が聞こえるくらい静かな蛍光灯の下でしばらく腰をおろして黙っていた。怖気づきながらもオジの正面でカメラを構えた。オジとばあさんは動かない。もちろんじいさんも。シャッター音の後フィルムを巻き込むワインダー音が響いてしばらくしてオジが小さく「これでええか。」といった。鯨幕が扇風機でゆれる。
今回、三回忌にはデジカメも持っていったがやはり不器用なフィルムカメラで撮った。

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