20090123
沖縄と写真と嘘
東京近代美術館「沖縄プリズム」展のチラシに誘われ足を運んだ。風にたわむ草ムラの写真が銀地に無光沢のブラックで印刷されている。写真家の名前は伊志嶺隆。学生時代、四谷にmoleというギャラリーがあったころ、写真をはじめたばかりであったはずだが、ギャラリー内の小さな書店で「光と影の島」という小さな小冊子を購入した。名前も知らないその写真家が伊志嶺であった。正方形のブローニーカメラでモノクローム。当時、自分もそのフォーマットにこだわっていたから、なのか、沖縄らしくもない、それでも光が乱反射したそのまぶしい風景と遠くを見つめる人たちの荒れた肌のモノクローム。引越しの時や本棚の整理を気まぐれにはじめるたびにその小冊子をながめかえしていたように思う。
展示での伊志嶺の写真には「光と…」からのものはなかった。展示物の多くは写真家の写真で占められていた。「沖縄」+「プリズム」。写真家は沖縄を通して時代を感じてきた部分が大きい。各時代に降り注がれ分散した光が沖縄というプリズムを通して一点に集約していく、といったような意味合いに受け取れたし、展覧会の名前としても気が利いたものであったが、答えを先に言ってしまえば、物足りない展覧会であった。島の光が多くの写真家や美術家、研究家に収集され、盗まれ、捕獲された沖縄の塵の集積から現代のこの湿った時間にもっともっと返ってくる匂いというものがなかったのだろうか。伊志嶺の写真すら光の激しい輝きを封じ込まれているようであったし、東松照明らの有名な写真群も沖縄を飾り付けるに取りそろえられた写真セレクトであったように思う。別の見方もできたのかもしれない。沖縄は戦後を背負いつづけ、その現実を多くの芸術や研究の中で消費され消化されてきたのだろうが、この展示はそうではない方向も目指せたのかもしれないとも感じた。部屋の壁に伊志嶺の写真の載ったそのチラシを飾り、期待を膨らませすぎたということもあるのかもしれない。
「沖縄プリズム」をみる直前、僕は急遽沖縄に行くことになった。
沖縄で暮らしていた妹はこの島にどんな光と影を見ていたのだろう。最後に交わした会話は彼女が母親の見舞いに実家に戻ってきていた2008年6月。病院に車で送ってもらう口実で、彼女の沖縄での暮らし振りでも聞こうかと考えていた。愛想もなく断られたのだが、それが最後だった。兄弟には会話らしい会話もなく、僕は彼女のことを何も知らなかった。彼女にはカメラを向けることができずにいた。伊志嶺のチラシを見ながら沖縄を撮影しに行く口実で、妹のことを写真に撮らないといけないと感じていた。そんな矢先であった。
豊見城の火葬場の入り口には本土では冬が始まるというこの季節にピンクの花が咲き乱れた大きな木が太陽に照らされ車の窓越しに光をにじませていた。一緒に行った叔父は葬儀屋さんから聞いた沖縄の葬式のしきたりや、高速からあちこちに見える亀甲墓のなかに火葬しない遺骸を次の親族が亡くなるまで安置し、入れ替えに長男の嫁が処理して骨のみにして埋葬する話を火葬する間、骨付き肉のたっぷりのったそうきそばを斎場前の飲食店で食べながらしきりに語っていた。
沖縄の写真ですぐに思い描くもののひとつに高梨豊氏の写真集『初国』にある、収穫したとうきびの並んだ作業場で二人の女性がスイカを抱え、視線もうつろに何かの準備をしている夏の写真がある。逆光にほんのり浮かぶ女性は美しさの中に歳相応の深いしわを表情に蓄え、それでいて何かを発するわけでもない。写真家の言葉を代弁するそぶりを封じ込めたそのサジ加減は、見るものを宙に浮いた感覚に漂わせる、本当に心に残る映像だ。「沖縄プリズム」の後に企画された高梨さんの「光のフィールドノート」展にもその一枚は選ばれてあった。
多くの本土の写真家は沖縄に出向き、ステレオタイプな異国感を搾取し利用していく。そんな本土の人間の見え透いた視線の中にも、沖縄はねじこんだモノクロームを凌駕するまぶしい風景を表出させる。沖縄の人間はそのまぶしさに気付くことなく当然のものとして日々パチンコなんかをしながら暮らしているのだと思うが、伊志嶺は本土に渡り自分の生まれた島の光のまぶしさに気付きフィルムに定着させる必要を感じた、のだろう。沖縄プリズムはそのことだけに焦点を当てるべきであったし、それに見合うタイトルであったように感じる。沖縄に関係する作家的な事象を寄せ集めることではなく、幾重の視線を通した写真から立ち上る沖縄の現実を照射することに意味があったはずだ。展示されていた他の美術作品や民芸運動の資料のよそよそしさは今の芸術の現在性の希薄さを露呈することになり、並列して選ばれた沖縄の写真群はその仕組みさえも封印され、濃淡の平面構成にしかなりえなかった。そもそもの写真の機能を復権させる力を秘めた企画であったはずであるという僕の妄想は展示を目の前にしてしぼんでしまった。高梨さんの「光のフィ…」パンフに書かれた増田氏のレポートにしても写真界の中での高梨豊のことが語られ、目の前の現実がまったく関係のない世界での出来事のようにリンクしない。高梨さんの写真は方法論やテーマとしての都市にそくして語られることがほとんどで、本人も自覚して自分の写真家としてのふるまいをその位置に置いてきたのだと思われるが、僕には高梨さんが生きたその時代のカメラの前の世界にどんな顔をしてシャッターを押していたのかということが写真を見ることであると強く感じる。写真界云々のそんなことは、何ら写真に写っているモノとは関係のないコトで、写真とは現実にカメラを向けることでしかないということに唯一現実との接点があるのではないだろうか。
「写真は生きていく人間の意識といっしょに走っていると思う」
「光のフィ…」展入口の壁に刷られていたこの言葉にすべては込められている。
妹の部屋のベットの横のカラーボックス上には牛腸茂雄の『幼年の時間(とき)』が立てかけられてあった。幼い時分はけんかばかりで、いい歳しても話もできなかった妹が写真に関心を向けていたことに驚き、彼女について何も知らなかった自分に後悔した。
「光と影の島」の最後の年譜をみて、伊志嶺氏が高梨さんの事務所にいたことをいまさら知った。この小冊子は交通事故で47歳でなくなった氏を追悼して1993年に編まれている。
展示での伊志嶺の写真には「光と…」からのものはなかった。展示物の多くは写真家の写真で占められていた。「沖縄」+「プリズム」。写真家は沖縄を通して時代を感じてきた部分が大きい。各時代に降り注がれ分散した光が沖縄というプリズムを通して一点に集約していく、といったような意味合いに受け取れたし、展覧会の名前としても気が利いたものであったが、答えを先に言ってしまえば、物足りない展覧会であった。島の光が多くの写真家や美術家、研究家に収集され、盗まれ、捕獲された沖縄の塵の集積から現代のこの湿った時間にもっともっと返ってくる匂いというものがなかったのだろうか。伊志嶺の写真すら光の激しい輝きを封じ込まれているようであったし、東松照明らの有名な写真群も沖縄を飾り付けるに取りそろえられた写真セレクトであったように思う。別の見方もできたのかもしれない。沖縄は戦後を背負いつづけ、その現実を多くの芸術や研究の中で消費され消化されてきたのだろうが、この展示はそうではない方向も目指せたのかもしれないとも感じた。部屋の壁に伊志嶺の写真の載ったそのチラシを飾り、期待を膨らませすぎたということもあるのかもしれない。
「沖縄プリズム」をみる直前、僕は急遽沖縄に行くことになった。
沖縄で暮らしていた妹はこの島にどんな光と影を見ていたのだろう。最後に交わした会話は彼女が母親の見舞いに実家に戻ってきていた2008年6月。病院に車で送ってもらう口実で、彼女の沖縄での暮らし振りでも聞こうかと考えていた。愛想もなく断られたのだが、それが最後だった。兄弟には会話らしい会話もなく、僕は彼女のことを何も知らなかった。彼女にはカメラを向けることができずにいた。伊志嶺のチラシを見ながら沖縄を撮影しに行く口実で、妹のことを写真に撮らないといけないと感じていた。そんな矢先であった。
豊見城の火葬場の入り口には本土では冬が始まるというこの季節にピンクの花が咲き乱れた大きな木が太陽に照らされ車の窓越しに光をにじませていた。一緒に行った叔父は葬儀屋さんから聞いた沖縄の葬式のしきたりや、高速からあちこちに見える亀甲墓のなかに火葬しない遺骸を次の親族が亡くなるまで安置し、入れ替えに長男の嫁が処理して骨のみにして埋葬する話を火葬する間、骨付き肉のたっぷりのったそうきそばを斎場前の飲食店で食べながらしきりに語っていた。
沖縄の写真ですぐに思い描くもののひとつに高梨豊氏の写真集『初国』にある、収穫したとうきびの並んだ作業場で二人の女性がスイカを抱え、視線もうつろに何かの準備をしている夏の写真がある。逆光にほんのり浮かぶ女性は美しさの中に歳相応の深いしわを表情に蓄え、それでいて何かを発するわけでもない。写真家の言葉を代弁するそぶりを封じ込めたそのサジ加減は、見るものを宙に浮いた感覚に漂わせる、本当に心に残る映像だ。「沖縄プリズム」の後に企画された高梨さんの「光のフィールドノート」展にもその一枚は選ばれてあった。
多くの本土の写真家は沖縄に出向き、ステレオタイプな異国感を搾取し利用していく。そんな本土の人間の見え透いた視線の中にも、沖縄はねじこんだモノクロームを凌駕するまぶしい風景を表出させる。沖縄の人間はそのまぶしさに気付くことなく当然のものとして日々パチンコなんかをしながら暮らしているのだと思うが、伊志嶺は本土に渡り自分の生まれた島の光のまぶしさに気付きフィルムに定着させる必要を感じた、のだろう。沖縄プリズムはそのことだけに焦点を当てるべきであったし、それに見合うタイトルであったように感じる。沖縄に関係する作家的な事象を寄せ集めることではなく、幾重の視線を通した写真から立ち上る沖縄の現実を照射することに意味があったはずだ。展示されていた他の美術作品や民芸運動の資料のよそよそしさは今の芸術の現在性の希薄さを露呈することになり、並列して選ばれた沖縄の写真群はその仕組みさえも封印され、濃淡の平面構成にしかなりえなかった。そもそもの写真の機能を復権させる力を秘めた企画であったはずであるという僕の妄想は展示を目の前にしてしぼんでしまった。高梨さんの「光のフィ…」パンフに書かれた増田氏のレポートにしても写真界の中での高梨豊のことが語られ、目の前の現実がまったく関係のない世界での出来事のようにリンクしない。高梨さんの写真は方法論やテーマとしての都市にそくして語られることがほとんどで、本人も自覚して自分の写真家としてのふるまいをその位置に置いてきたのだと思われるが、僕には高梨さんが生きたその時代のカメラの前の世界にどんな顔をしてシャッターを押していたのかということが写真を見ることであると強く感じる。写真界云々のそんなことは、何ら写真に写っているモノとは関係のないコトで、写真とは現実にカメラを向けることでしかないということに唯一現実との接点があるのではないだろうか。
「写真は生きていく人間の意識といっしょに走っていると思う」
「光のフィ…」展入口の壁に刷られていたこの言葉にすべては込められている。
妹の部屋のベットの横のカラーボックス上には牛腸茂雄の『幼年の時間(とき)』が立てかけられてあった。幼い時分はけんかばかりで、いい歳しても話もできなかった妹が写真に関心を向けていたことに驚き、彼女について何も知らなかった自分に後悔した。
「光と影の島」の最後の年譜をみて、伊志嶺氏が高梨さんの事務所にいたことをいまさら知った。この小冊子は交通事故で47歳でなくなった氏を追悼して1993年に編まれている。
20081123
僕の図書館
僕の図書館の喫茶が今度のクリスマスで閉店する。この街に越して以来足繁く通った図書館だ。初めてここへ来たときに図書館で軽食を注文できることに強く心を打たれた。昼時ともなれば館内に焼きそばの香りが充満し、本にとっては決してよい環境であるとはいえないが、そのにおいに誘われて休みのたびにカメラをぶらさげて通った。正午まではモーニングがあり、トースト2枚にゆで卵とコーヒーで300円の優雅な時間を過ごせた。朝寝坊だった僕はよく12:00ぎりぎりに駆け込んだ。ほんとうに狭い狭いキッチンに、ちょうど10年前の当時は二人のおばさんがモクモクと働いていていた。静かな館内に焼きそばを炒める音だけが響く。二人の中がギクシャクしている雰囲気を醸し出している時期もあったり、どちらか一人しかいない時期もあった。そんなときは心が疲れているのではないかと勝手な妄想で心配したりした。生姜焼き定食やハンバーグ定食なんてメニューまでかつてはあった。そのうちおばさんが一人やめて、残ったおばさんが調子が悪い(それも勝手な想像であるが…)ときはよく店が閉まっていた。注文が少ない午前中はいつも狭いキッチンに腰掛けて静かに本を読んでいた。
僕が会社を辞めてふらふらしているときは、家から外に出るきっかけをいつもこの図書館で見つけていた。10年も世間話らしい会話もすることなかったのだ。
カウンターの下に貼られた営業日を記入した小さなカレンダーに店が終わってしまうことがそっと書いてあることに気づいたのはかみさんだった。最近は節約生活で外食することも少なくなっていて、図書館での食事の回数もめっきり減っていた。今日の昼食を久しぶりに子供らを連れて図書館でとることにした。
思い出してみると子供が生まれる前からここでおばさんの絶品うどんを食べ、コーヒーをすすっていた。7歳の息子が生まれたばかりのころ、僕が仕事もせずにカメラをさげてA型ベビーカーを押して何処までも散歩に出かけてく日の朝もここのうどんから始まっていた。うどんであれば哺乳瓶のチビと食事を分けることができた。図書カードを作ってあげてチビが分で本を探すようになっころには、何も言わなくてもプラスチックの味噌汁茶碗が机のうどんの横に置かれていた。何度か息子はガラスのコップを割ったし、夫婦で子供を目の前にここで諍いを起こしたりもした。二人目もここのうどんがお気に入りだ。いつもおばさんがそこにはいたのだなぁと今感じている。天気の話さえもしたことがないというのに、おばさんも年をとったし、僕もすっかりメタボになった。
秋のはじめ、蚊の残党が返却カウンターの白いテーブルの上をヨイコラ飛んでいた。返却しようとカウンターに置いていた本をとっさにつかみ奴めがけて一発食らわしたところ、その本の上に追い打ちをかけるように面と向かって座っていたカウンターのお姉さんの平手が加わった。僕とカウンターのお姉さんの視線はつぶされたであろう奴に覆い被さった本とお姉さんの手の甲を見つめていて、しばしの沈黙でお互い目があった。「あはは~、こんなこと図書館の本でしちゃいけないんですけどねぇ~あはは…ははは」お姉さんは僕のおかげで本で蚊を殺す羽目になってしまったのだが、少し気を揉んで、同僚に聞こえるように結構通る声でつぶやくと僕の顔もつられてにやついてしまった。この地域の図書館は数年前から業務が民間に委託されてからは見慣れない顔が多かったのだけれど、喫茶のおばちゃんだけはずーっと変わらなかった。その日、共犯のお姉さんは老婦人が本を探しに来た際も「ばかのかべは今は貸し出し中ですけど、同じ筆者のチョウばかのかべなら在庫ございますよ!」って、やっぱり通る声で受け答えしていたものだから、婦人は周りを気にしてきょろきょろしていた。
この愛する図書館の最寄りの商店街が昨日深夜テレ東のモヤモヤスポットに選ばれていたことを誰かに言いたくて仕方がなかったのだけれど、朝っぱらからかみさんに言ってみたらリアクションがなくてめげた。さまぁ~ずが引っかかったお店のご主人も「深夜番組だからねぇ~。じいさんばあさんは見ないよ…」って近所の常連に嘆いているのを小耳にはさんだ
「てれびのスキマ」
僕が会社を辞めてふらふらしているときは、家から外に出るきっかけをいつもこの図書館で見つけていた。10年も世間話らしい会話もすることなかったのだ。
カウンターの下に貼られた営業日を記入した小さなカレンダーに店が終わってしまうことがそっと書いてあることに気づいたのはかみさんだった。最近は節約生活で外食することも少なくなっていて、図書館での食事の回数もめっきり減っていた。今日の昼食を久しぶりに子供らを連れて図書館でとることにした。
思い出してみると子供が生まれる前からここでおばさんの絶品うどんを食べ、コーヒーをすすっていた。7歳の息子が生まれたばかりのころ、僕が仕事もせずにカメラをさげてA型ベビーカーを押して何処までも散歩に出かけてく日の朝もここのうどんから始まっていた。うどんであれば哺乳瓶のチビと食事を分けることができた。図書カードを作ってあげてチビが分で本を探すようになっころには、何も言わなくてもプラスチックの味噌汁茶碗が机のうどんの横に置かれていた。何度か息子はガラスのコップを割ったし、夫婦で子供を目の前にここで諍いを起こしたりもした。二人目もここのうどんがお気に入りだ。いつもおばさんがそこにはいたのだなぁと今感じている。天気の話さえもしたことがないというのに、おばさんも年をとったし、僕もすっかりメタボになった。
秋のはじめ、蚊の残党が返却カウンターの白いテーブルの上をヨイコラ飛んでいた。返却しようとカウンターに置いていた本をとっさにつかみ奴めがけて一発食らわしたところ、その本の上に追い打ちをかけるように面と向かって座っていたカウンターのお姉さんの平手が加わった。僕とカウンターのお姉さんの視線はつぶされたであろう奴に覆い被さった本とお姉さんの手の甲を見つめていて、しばしの沈黙でお互い目があった。「あはは~、こんなこと図書館の本でしちゃいけないんですけどねぇ~あはは…ははは」お姉さんは僕のおかげで本で蚊を殺す羽目になってしまったのだが、少し気を揉んで、同僚に聞こえるように結構通る声でつぶやくと僕の顔もつられてにやついてしまった。この地域の図書館は数年前から業務が民間に委託されてからは見慣れない顔が多かったのだけれど、喫茶のおばちゃんだけはずーっと変わらなかった。その日、共犯のお姉さんは老婦人が本を探しに来た際も「ばかのかべは今は貸し出し中ですけど、同じ筆者のチョウばかのかべなら在庫ございますよ!」って、やっぱり通る声で受け答えしていたものだから、婦人は周りを気にしてきょろきょろしていた。
この愛する図書館の最寄りの商店街が昨日深夜テレ東のモヤモヤスポットに選ばれていたことを誰かに言いたくて仕方がなかったのだけれど、朝っぱらからかみさんに言ってみたらリアクションがなくてめげた。さまぁ~ずが引っかかったお店のご主人も「深夜番組だからねぇ~。じいさんばあさんは見ないよ…」って近所の常連に嘆いているのを小耳にはさんだ
「てれびのスキマ」
20081118
煙突の煙のゆくえ
久方ぶりに宿題を申し受けた。今度あうときまでに一本の映画を見ておくようにというモノだ。今度あうというのは、毎月1回四谷のギャラリーで開かれている写真展で、また来月、ということだ。
息子が生まれた当時、環境測定という仕事をしていた。もう沢山のことを忘れてしまったが確か環境測定には大きく分けて二つの分野があって、「発生源」ともう一つは文字通り「環境」。僕は発生源の部署に所属していた。「環境」とは発生源から放出される何らかの公害物質による大気や河川などの一次的な汚染を測定する。そんなに体は汚れない。「発生源」はその放出される物質そのものを測定する業務である。つまり、清掃工場の煙突に登ったり、アルミの溶解炉の上でサンプリングをする。体が汚れる、結構しんどい仕事だった。先日、その職場の同窓会と呼ぶにふさわしく、やめた人間から現役のヒラから部長まで集まって当時の思い出話に花が咲いた。7歳の息子が生まれて職を離れたので7、8年前のこと。その頃ちょうどニュースステーションのおかげで環境業界ダイオキシンバブルの真っ最中であった。もちろん僕らのもっぱらの仕事はそのダイオキシンのサンプリングで、全国各地をハイエースキャラバンで巡り巡った。ダイオキシンは塩素が含まれているモノが燃えればどこからでも発生する。人間が燃えてもだ。会社のお得意さんに火葬炉メーカーの大手さんがいて多くの火葬を測定サンプリングした。火葬場の職員さんと共同作業で荼毘にふされるご遺体から、バーナー着火とタイミングをあわせ、焼き上がる時間をおもんぱかり採取する。
当時図書館で見つけた本にその名もそのまま「火葬場」という研究書があった。何気なく借りたものの、研究書らしからぬ序章に心が引かれた。その研究者は火葬を考えるにおいてまず、「小早川家の秋」の1シーンに出てくる火葬場の煙突をつきとめるところから筆を始めていた。
内野雅文の追悼の折々で永井さんとはあうことになった。酒を飲み過ぎるととんでもなくだめな輩になってしまうのだが、その博学とうんちくぶりには「ウザい」を超えて悲しみを覚えるくらいで、語り出したらとまらない。最初は場を読めないマシンガンにうんざりしていたのだが、ここ最近写真展会場で月に一度会うようになって、彼の情熱を許せるようになってきた。どうやら永井さんは写真家らしい。なんだか彼の写真を見てみたい欲がモクモクとわいてきている。夜の渋谷や新宿で、スナップを続けている、らしい。最近はいい年をしてモヤモヤスポットを歩いては昼間にも写真を撮るようになった、らしい。その永井さんが小津の映画を見るように強烈に推してきた。どうも僕は避けていたようだ。ゴダールだって見たことがない。ゴダールやらオヅやらを口にしてわかった物言いをする人たちを避けていた。そんな僕に永井さんは年齢とともにわかることが多くある映画だ、といってオヅを大声で勧めるのである。こどものしつけや教育で悩み、夫婦げんかの末以後家族4人のすべての食事を作る羽目になった君だからこそわかることがある、と豪語する。山に登ったこともないのにヤマケイを読んで八ヶ岳についてのうんちくをたれる永井さんのことだが…。
TSUTAYAの半額クーポンで借りた小津安二郎「小早川家の秋」は4:3でトリミングされていてちょっと悲しかった。
「煙のゆくえ」失われていくものたちへのノスタルジー
『火葬場』浅香勝輔, 八木沢壮一(大明堂/1983)
息子が生まれた当時、環境測定という仕事をしていた。もう沢山のことを忘れてしまったが確か環境測定には大きく分けて二つの分野があって、「発生源」ともう一つは文字通り「環境」。僕は発生源の部署に所属していた。「環境」とは発生源から放出される何らかの公害物質による大気や河川などの一次的な汚染を測定する。そんなに体は汚れない。「発生源」はその放出される物質そのものを測定する業務である。つまり、清掃工場の煙突に登ったり、アルミの溶解炉の上でサンプリングをする。体が汚れる、結構しんどい仕事だった。先日、その職場の同窓会と呼ぶにふさわしく、やめた人間から現役のヒラから部長まで集まって当時の思い出話に花が咲いた。7歳の息子が生まれて職を離れたので7、8年前のこと。その頃ちょうどニュースステーションのおかげで環境業界ダイオキシンバブルの真っ最中であった。もちろん僕らのもっぱらの仕事はそのダイオキシンのサンプリングで、全国各地をハイエースキャラバンで巡り巡った。ダイオキシンは塩素が含まれているモノが燃えればどこからでも発生する。人間が燃えてもだ。会社のお得意さんに火葬炉メーカーの大手さんがいて多くの火葬を測定サンプリングした。火葬場の職員さんと共同作業で荼毘にふされるご遺体から、バーナー着火とタイミングをあわせ、焼き上がる時間をおもんぱかり採取する。
当時図書館で見つけた本にその名もそのまま「火葬場」という研究書があった。何気なく借りたものの、研究書らしからぬ序章に心が引かれた。その研究者は火葬を考えるにおいてまず、「小早川家の秋」の1シーンに出てくる火葬場の煙突をつきとめるところから筆を始めていた。
内野雅文の追悼の折々で永井さんとはあうことになった。酒を飲み過ぎるととんでもなくだめな輩になってしまうのだが、その博学とうんちくぶりには「ウザい」を超えて悲しみを覚えるくらいで、語り出したらとまらない。最初は場を読めないマシンガンにうんざりしていたのだが、ここ最近写真展会場で月に一度会うようになって、彼の情熱を許せるようになってきた。どうやら永井さんは写真家らしい。なんだか彼の写真を見てみたい欲がモクモクとわいてきている。夜の渋谷や新宿で、スナップを続けている、らしい。最近はいい年をしてモヤモヤスポットを歩いては昼間にも写真を撮るようになった、らしい。その永井さんが小津の映画を見るように強烈に推してきた。どうも僕は避けていたようだ。ゴダールだって見たことがない。ゴダールやらオヅやらを口にしてわかった物言いをする人たちを避けていた。そんな僕に永井さんは年齢とともにわかることが多くある映画だ、といってオヅを大声で勧めるのである。こどものしつけや教育で悩み、夫婦げんかの末以後家族4人のすべての食事を作る羽目になった君だからこそわかることがある、と豪語する。山に登ったこともないのにヤマケイを読んで八ヶ岳についてのうんちくをたれる永井さんのことだが…。
TSUTAYAの半額クーポンで借りた小津安二郎「小早川家の秋」は4:3でトリミングされていてちょっと悲しかった。
「煙のゆくえ」失われていくものたちへのノスタルジー
『火葬場』浅香勝輔, 八木沢壮一(大明堂/1983)
20081103
さまぁ〜ずとスナップ写真2
写真展を見に谷中に行く。学生の時以来だ。町を少しだけ歩いた。霊園を過ぎるとぞくぞくしたあのときの街の感じが伝わってきた。初めて何も知らずに訪れ感じた雰囲気を残している希な街だ。統一されたレトロ調の木製看板や芸能人の写真を張り巡らせた惣菜屋さんの活気を失わぬよう努力続けている商店街の手本である感じは何処でも変わらない。所詮なじみにはなれずに通り過ぎるなら、おいしくって雑多であればいい。若者やおしゃれな店がその香りをかぎつけて街を変えていくのも、商店街の永続に役立ては文句はない。けれど、例のモヤモヤ感はないのかもしれない。「サマーズ」を「さま~ず」に前の日記で訂正したのだけれど、「さまぁ〜ず」が正式コンビ名のようだ。さまぁ〜ずが歩くにはふさわしくないというだけのこと。そんな町のチョイはずれのガラス工房で中藤毅彦氏の流氷の写真をみた。まず写真が先にあってその写真にあわせて工房のお姉さんがガラスの額を制作したとのこと。写真が小さく寂しかった。粒子の見えない中藤氏の写真は柔らかだった。写真とガラス細工という行為があからさまに違うということを当然のことではあるが強く感じた。
ガレリアQの牟田さんに紹介された南谷洋策さんのDMを現在考えている。現役の医者でありながら写真を発表し、同時にコントラバス奏者として生きている。打ち合わせでは気長に僕ののんびりした写真セレクトにつきあっていただいた。いつも他人の写真を見て気になることはこのカメラを構えた人間がどの立ち位置で、目の前にある世界と対峙しているのかということである。医者であるということとコントラバスを弾く行為も併せて写真を撮るということの一個人の視点になりうるのではないかという南谷さんの心意気に深く感銘している(こんなわかりやすう物言いではないが…)。それでも立ち位置など関係がないと主張する写真には一本の筋を見つけることができるが、立ち位置に心が及んでいない写真には辟易する。
今、机の上にあるポルトガルでのモノクロームのポルトガルである理由を尋ねたらフェルナンド・ペソアという詩人の生きた町をたずねたかったのだそうだ。「微明」というタイトルは老子の言葉から来ている。写真に写り込んだモノとコトと濃淡と南谷さんの照射する言葉から、脳みそのシナプスをつなぐ道を何とか偽装でもいいから作ろうとしている。
老子/微明第三十六
將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
【まさにこれを歙(おさ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。まさにこれを弱くせんと欲すれば、必ず固くこれを強くし、まさにこれを廃(はい)せんと欲すれば、必ず固くこれを興(おこ)し、まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれを与う。これを微明(びめい)と謂う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強に勝つをしる。魚は、淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。】
http://books.google.co.jp/books?id=oHNeeUz6IaIC&pg=PA123&lpg=PA123&dq=%E5%BE%AE%E6%98%8E&source=web&ots=yxLr6ymgUy&sig=qxxUXkgmnUOE6clWtStmdm5g9Bw&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=8&ct=result#PPA123,M1
の訳がわかりやすかった。
「不穏の書、断章」フェルナンド・ペソア(澤田直 訳編・思潮社)の解説によると「われわれを震撼させるこの無限の空間の沈黙を、ソレアス(ペソアの異名)は、宇宙の広大さにではなく、日常のごく些細な場面のいたるところに見出すのだが、それを彼は、円環を閉じることを無意識のうちに拒否することで逃れようとし、そのことによって、まさに、〈無限〉そのものをそこに宙づりにしつつ現出させるのだ。」と書かれている。まさに〈モヤモヤ〉ではあるが、僕は正直ペソアに(そして僕自身に)、もっと外へ出ろよ!!若造、っていってやりたい気分になるくらい、彼(ペソア)が解説のいう「円環」を閉じ忘れている気がしてならなかった。
…ところが、ついうっかりして、行動を起こしてしまうことがある。私の仕事は意志の結果ではなく、意志の弱さの結果なのだ。私が始めるのは、考える力がないためだし、私が終えるのは中断する勇気がないからだ。つまり、この本は私の怯懦(きょうだ=おくびょう)の結果なのだ。…(P136、解説)
図書館で借りたその本には二つの付箋が残っていた。その一つ
62
もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子に座ったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。魂が悲しむことさえしなければ。(P39)
手元にある南谷さんの六切りのバライタを眺めながら難問に顔を引きつらせてみるのだが…、そんなことより写真展会場でのコントラバスの演奏を聴けば解決することなのかもしれない。楽しみ。
中藤氏の小さな写真をみた後、都区内フリー切符を購入していたついでに秋葉原に降りた。金曜夜の秋葉原で小さなデモ行進が行われていた。カメラを向けられることを意識したコスプレの彼らを撮ってはみたが何も見えなかった。が、しかし、カメラをナップから出していた弾みでうっかりしてスナップ写真を撮ってみてしまった。内野雅文が夜に徘徊した街の人種とはちがう秋葉原に光源を探した。ちょっと震えた。どうやら僕はスナップ写真を初めて撮ったようだ。スナップ写真について語る言葉など全然持ちあわせていないことが少しだけわかった。
ガレリアQの牟田さんに紹介された南谷洋策さんのDMを現在考えている。現役の医者でありながら写真を発表し、同時にコントラバス奏者として生きている。打ち合わせでは気長に僕ののんびりした写真セレクトにつきあっていただいた。いつも他人の写真を見て気になることはこのカメラを構えた人間がどの立ち位置で、目の前にある世界と対峙しているのかということである。医者であるということとコントラバスを弾く行為も併せて写真を撮るということの一個人の視点になりうるのではないかという南谷さんの心意気に深く感銘している(こんなわかりやすう物言いではないが…)。それでも立ち位置など関係がないと主張する写真には一本の筋を見つけることができるが、立ち位置に心が及んでいない写真には辟易する。
今、机の上にあるポルトガルでのモノクロームのポルトガルである理由を尋ねたらフェルナンド・ペソアという詩人の生きた町をたずねたかったのだそうだ。「微明」というタイトルは老子の言葉から来ている。写真に写り込んだモノとコトと濃淡と南谷さんの照射する言葉から、脳みそのシナプスをつなぐ道を何とか偽装でもいいから作ろうとしている。
老子/微明第三十六
將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
【まさにこれを歙(おさ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。まさにこれを弱くせんと欲すれば、必ず固くこれを強くし、まさにこれを廃(はい)せんと欲すれば、必ず固くこれを興(おこ)し、まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれを与う。これを微明(びめい)と謂う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強に勝つをしる。魚は、淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。】
http://books.google.co.jp/books?id=oHNeeUz6IaIC&pg=PA123&lpg=PA123&dq=%E5%BE%AE%E6%98%8E&source=web&ots=yxLr6ymgUy&sig=qxxUXkgmnUOE6clWtStmdm5g9Bw&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=8&ct=result#PPA123,M1
の訳がわかりやすかった。
「不穏の書、断章」フェルナンド・ペソア(澤田直 訳編・思潮社)の解説によると「われわれを震撼させるこの無限の空間の沈黙を、ソレアス(ペソアの異名)は、宇宙の広大さにではなく、日常のごく些細な場面のいたるところに見出すのだが、それを彼は、円環を閉じることを無意識のうちに拒否することで逃れようとし、そのことによって、まさに、〈無限〉そのものをそこに宙づりにしつつ現出させるのだ。」と書かれている。まさに〈モヤモヤ〉ではあるが、僕は正直ペソアに(そして僕自身に)、もっと外へ出ろよ!!若造、っていってやりたい気分になるくらい、彼(ペソア)が解説のいう「円環」を閉じ忘れている気がしてならなかった。
…ところが、ついうっかりして、行動を起こしてしまうことがある。私の仕事は意志の結果ではなく、意志の弱さの結果なのだ。私が始めるのは、考える力がないためだし、私が終えるのは中断する勇気がないからだ。つまり、この本は私の怯懦(きょうだ=おくびょう)の結果なのだ。…(P136、解説)
図書館で借りたその本には二つの付箋が残っていた。その一つ
62
もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子に座ったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。魂が悲しむことさえしなければ。(P39)
手元にある南谷さんの六切りのバライタを眺めながら難問に顔を引きつらせてみるのだが…、そんなことより写真展会場でのコントラバスの演奏を聴けば解決することなのかもしれない。楽しみ。
中藤氏の小さな写真をみた後、都区内フリー切符を購入していたついでに秋葉原に降りた。金曜夜の秋葉原で小さなデモ行進が行われていた。カメラを向けられることを意識したコスプレの彼らを撮ってはみたが何も見えなかった。が、しかし、カメラをナップから出していた弾みでうっかりしてスナップ写真を撮ってみてしまった。内野雅文が夜に徘徊した街の人種とはちがう秋葉原に光源を探した。ちょっと震えた。どうやら僕はスナップ写真を初めて撮ったようだ。スナップ写真について語る言葉など全然持ちあわせていないことが少しだけわかった。
20081023
ヤマユキ
山に登る準備をしている。年甲斐もなく誕生日プレゼント(自分へのご褒美)を前借りして登山靴を新調した。派遣先から帰り道である多摩川もすっかり暗がりになってしまったので一昨日から残業を1時間ほどすることにした。靴代の足しになればよい。そのくらいの気持ちであったが、心が揺らいで仕事場の僕のエクセルの予定表に残業代を管理する計算式を組み込んでしまった(たいしたものではないが)。組み込み終わったとたんエクセルがフリーズしたことで、なんとかお金の虫の疼きを押さえ込んだ。けれど自動保存のアドインをずいぶん前に入れておいたことを思い出し、保存されていた計算式のバックアップファイルを探し当ててしまった。些細なことだが心が揺れていた。残業は心も社会もダメにすると憤ったことも仕事を辞めた理由だったような気がする。競争をあおる社会にうんざりしたはずだ。大げさに言えば。
今日、ガレリアQ の牟田さんに「サマーズ」ではなくて「さまーず」であることを注意された。どうでもいいことではあるが心にしみこんだ。靴慣らしのためにいつもならギャラリーのある新宿三丁目には四谷で丸ノ内線に乗り換えるところを永田町で挑戦してみたのだが、乗り換えまで650mの案内にまだ硬い登山靴に覆われたつま先はすっかりめげてしまった。けれど、うれしいDM作成依頼をうけた。
土曜の朝4時にレンタカーで東京を出発して八ヶ岳の硫黄岳を目指す山行き。山行きという言葉の響きは美しい。どうも辞書にはない言葉のようだ。いつ頃から使われているモノなのか知らないが、最近覚えた。
道行き、雲行き、先行き、成り行き、売れ行き、地獄行き
山への厳しい道行きを引っ掛けて作られた造語なのかもしれない。
今回の山行きは学生時代を暗室で一緒にすごした面々に声をかけた(どんよりとした反応であった)。10年強たって、お互いの属している世界について確認しあってみたいという僕の勝手な思いにつきあっていただけるわずかなメンツと久々に連絡を取り合い段取りをしててんやわんやなのだが、心地よく疲れている。学生の時分20穴ファイルにして作った「10年後」という知人を撮影したポートレイト写真の束がこのキーボードの置かれた机の奥にしまってあるはずだ。10年後また写真を撮るつもりでリングファイルにした。今でも携帯に登録されている人間は一人しか思い浮かばない。
硫黄岳には7歳二人と4歳3歳のチビどもも連れて行くことにした。無理はしないが、よい景色の場所で、できれば頂上で集合写真を撮ろうと考えている。
今日、ガレリアQ の牟田さんに「サマーズ」ではなくて「さまーず」であることを注意された。どうでもいいことではあるが心にしみこんだ。靴慣らしのためにいつもならギャラリーのある新宿三丁目には四谷で丸ノ内線に乗り換えるところを永田町で挑戦してみたのだが、乗り換えまで650mの案内にまだ硬い登山靴に覆われたつま先はすっかりめげてしまった。けれど、うれしいDM作成依頼をうけた。
土曜の朝4時にレンタカーで東京を出発して八ヶ岳の硫黄岳を目指す山行き。山行きという言葉の響きは美しい。どうも辞書にはない言葉のようだ。いつ頃から使われているモノなのか知らないが、最近覚えた。
道行き、雲行き、先行き、成り行き、売れ行き、地獄行き
山への厳しい道行きを引っ掛けて作られた造語なのかもしれない。
今回の山行きは学生時代を暗室で一緒にすごした面々に声をかけた(どんよりとした反応であった)。10年強たって、お互いの属している世界について確認しあってみたいという僕の勝手な思いにつきあっていただけるわずかなメンツと久々に連絡を取り合い段取りをしててんやわんやなのだが、心地よく疲れている。学生の時分20穴ファイルにして作った「10年後」という知人を撮影したポートレイト写真の束がこのキーボードの置かれた机の奥にしまってあるはずだ。10年後また写真を撮るつもりでリングファイルにした。今でも携帯に登録されている人間は一人しか思い浮かばない。
硫黄岳には7歳二人と4歳3歳のチビどもも連れて行くことにした。無理はしないが、よい景色の場所で、できれば頂上で集合写真を撮ろうと考えている。
20081011
フリッカーのアドレス変更しました。
flickrからこのweblogを更新をしている。最初は英語ばかりで取っつきにくかったが、だんだんいいところが見えてきたので運営する米yahooにお金を払うことにした。年間25ドルくらい。
flickrの名前の由来をネットで探してみたが見つからなかった。派遣先の仕事でよく「フリッカ検出」なる技術系の用語が出てくるものだから調べてみるとモニタなどのちらつきを言うのだそうだ。ある構造を持った機器の中で何らかの原因で局部に過度な負荷がかかり出力部にちらつきなどの弊害として現れることで、その機器の不安定さの兆しとして受け止め、原因を解析するときなんかに使っているみたい。口内炎みたいなもの。スペルが【flicker】であったので、妙に納得した。【flickr】は「写真を共有するコミュニティサイト」らしいが命名が妙に写真の核心を突いている感じがしたこともあって、pro登録した。
ネット上の写真をモニタで見ていく作業というのはフィルムのベタから写真をセレクトしていく感覚と近いが、もっとおおざっぱなものだ。今までの写真を見るという感覚とはかなり違う(写真の見方はそれぞれであるが世の中のほとんどが間違っている、というか知らなくて損をしている)。【flickr】サイトで見つけた何かを感じる写真の細部は拡大表示をすることでしか見ることができない。僕がモニタに近づき目玉を接写レンズにして細部を凝視するというわけにはいかない。僕のアップした写真も幾人かに見ていただいているのだけれど、写真の下に表示されるviewのカウントが多いものは、なるほどなぁーといった感じがする。自分の場合もそうだが、写真の濃淡の幅が広くて心をくすぐる色味のものに反応している。写っているものに対しては風景ならば濃淡が描く構図に、人物ならば表情の豊かさと肌の色に反射神経が反応しているに過ぎない。僕はぱっと飛び込んでくる写真の強さを信じない。写真は写ったモノの表層達が編み上げるプログラムで、小説を1m離して眺めたところで何も浮かび上がってこないのと同じく、そこで見た強さは小説のカバーデザインでしかない。その編み上げられたモノ達の関連は拡大表示によって切り離され写真の存在理由(その写真を選んだという)は宙に浮いていく。それでも僕は【flickr】を選んだわけだが…。
http://www.flickr.com/photos/hiroomis/
flickrの名前の由来をネットで探してみたが見つからなかった。派遣先の仕事でよく「フリッカ検出」なる技術系の用語が出てくるものだから調べてみるとモニタなどのちらつきを言うのだそうだ。ある構造を持った機器の中で何らかの原因で局部に過度な負荷がかかり出力部にちらつきなどの弊害として現れることで、その機器の不安定さの兆しとして受け止め、原因を解析するときなんかに使っているみたい。口内炎みたいなもの。スペルが【flicker】であったので、妙に納得した。【flickr】は「写真を共有するコミュニティサイト」らしいが命名が妙に写真の核心を突いている感じがしたこともあって、pro登録した。
ネット上の写真をモニタで見ていく作業というのはフィルムのベタから写真をセレクトしていく感覚と近いが、もっとおおざっぱなものだ。今までの写真を見るという感覚とはかなり違う(写真の見方はそれぞれであるが世の中のほとんどが間違っている、というか知らなくて損をしている)。【flickr】サイトで見つけた何かを感じる写真の細部は拡大表示をすることでしか見ることができない。僕がモニタに近づき目玉を接写レンズにして細部を凝視するというわけにはいかない。僕のアップした写真も幾人かに見ていただいているのだけれど、写真の下に表示されるviewのカウントが多いものは、なるほどなぁーといった感じがする。自分の場合もそうだが、写真の濃淡の幅が広くて心をくすぐる色味のものに反応している。写っているものに対しては風景ならば濃淡が描く構図に、人物ならば表情の豊かさと肌の色に反射神経が反応しているに過ぎない。僕はぱっと飛び込んでくる写真の強さを信じない。写真は写ったモノの表層達が編み上げるプログラムで、小説を1m離して眺めたところで何も浮かび上がってこないのと同じく、そこで見た強さは小説のカバーデザインでしかない。その編み上げられたモノ達の関連は拡大表示によって切り離され写真の存在理由(その写真を選んだという)は宙に浮いていく。それでも僕は【flickr】を選んだわけだが…。
http://www.flickr.com/photos/hiroomis/
20081004
息子の捻挫とシューベルト
2年生の息子の学芸会生徒鑑賞日の今日、父親ぶって「今日はどうだった?」と聞いてみたのだが、返事は「かーちゃんに聞いて」であった。それでも問いただし、ちゃんとできたかの問いに「だいたいね」との回答を得た。先週の木曜日、彼は前捻挫をした。携帯に見知らぬ固定電話の着信が残っていたのは学校からの連絡であった。1.5倍はふくらんだ足の息子に問いただしたが捻挫のわけは言わなかった。土曜日にケンケンする息子に付き添って近くの児童館のお祭りへ行った。多くの大人に包帯の足について心配される彼を見て、なかなか顔が広いことを知る。理由は言わなかった。そんな彼を近くで見ていた女の子が「けんかしたんだよ」と我慢できずにつぶやいた。そこからはじめてわけを語り出したのだが、相手が悪いと言うことを主張するのにムキになっている彼を感慨深く眺めていた。
シューベルトの「四つの即興曲」の2番(D935 No.2)。シューベルトがどんなおじさんであるか知らないけれど、佐藤真の映画「OUT OF PLACE」の最後にバレンボイムがピアノで弾いていた曲だ。上映された当時、見に行くことができなかった。佐藤が外国に目を向けていることに疑問を感じていたし、「阿賀に生きる」のような映像をフィルムに収めることができない歯がゆさを映画に見てしまいそうで怖かった、というのがおそらく当時の理由である。
アテネフランセでの回顧上映で「阿賀に生きる」を10年ぶりに見た。前はかみさんと見に行ったらしいのだが、記憶にない。けれど、ずっと引きずっている。10年前僕はこの映画に何を見ていたのか思い出せないほど新鮮で美しい映像だった。そして、やっと「OUT OF PLACE」を見た。美しい映像はなかった。美しい映像を希求する佐藤監督のもがきを見た。美しい映像とは風景である必要もないし、条件を満たした光でもない。写ってしまった映像である。佐藤さんを引きずって10年くらい僕はもう生きてきた。ドキュメンタリーとフィクションの境界の不在を常に主張していた方である。境界があるとするならばドキュメンタリーは写ってしまった美しい映像のためにフィルムをつなぎ合わせることで、フィクションとは美しいセリフのために撮影しフィルムをつなぎ合わせることではないか…と、10年前の昔話をしながら饒舌になってかみさんに言ってみた。
「OUT OF PLACE」はエドワード・サイードの自伝のタイトルからとったもので、邦題が「遠い場所の記憶」。よい響きの言葉だ。直訳すると〈場違い〉。「何で私が遠く離れた国のサイードを…」という問いかけであり、結論でもあるナレーションで始まる「OUT OF PLACE」は今の僕にとって、前日の不摂生もあって多少眠たい。上映後のトークショーで羽仁進氏がこの映画について「論理的思考を映像表現のなかで試みた作」と評し、会ったことのないまま亡くなった佐藤氏に対して「多くの人たちのことを考えている人」だといっていたことに納得した。10年前「阿賀に…」を見たときのように僕には「OUT OF PLACE」はわからないことが多すぎるのだろう。けれども、映画最後のシューベルトのピアノが頭にこびりついている。息子の捻挫で膨張した足の映像とこのピアノの音はこれから10年リンクしていく。
シューベルトの「四つの即興曲」の2番(D935 No.2)。シューベルトがどんなおじさんであるか知らないけれど、佐藤真の映画「OUT OF PLACE」の最後にバレンボイムがピアノで弾いていた曲だ。上映された当時、見に行くことができなかった。佐藤が外国に目を向けていることに疑問を感じていたし、「阿賀に生きる」のような映像をフィルムに収めることができない歯がゆさを映画に見てしまいそうで怖かった、というのがおそらく当時の理由である。
アテネフランセでの回顧上映で「阿賀に生きる」を10年ぶりに見た。前はかみさんと見に行ったらしいのだが、記憶にない。けれど、ずっと引きずっている。10年前僕はこの映画に何を見ていたのか思い出せないほど新鮮で美しい映像だった。そして、やっと「OUT OF PLACE」を見た。美しい映像はなかった。美しい映像を希求する佐藤監督のもがきを見た。美しい映像とは風景である必要もないし、条件を満たした光でもない。写ってしまった映像である。佐藤さんを引きずって10年くらい僕はもう生きてきた。ドキュメンタリーとフィクションの境界の不在を常に主張していた方である。境界があるとするならばドキュメンタリーは写ってしまった美しい映像のためにフィルムをつなぎ合わせることで、フィクションとは美しいセリフのために撮影しフィルムをつなぎ合わせることではないか…と、10年前の昔話をしながら饒舌になってかみさんに言ってみた。
「OUT OF PLACE」はエドワード・サイードの自伝のタイトルからとったもので、邦題が「遠い場所の記憶」。よい響きの言葉だ。直訳すると〈場違い〉。「何で私が遠く離れた国のサイードを…」という問いかけであり、結論でもあるナレーションで始まる「OUT OF PLACE」は今の僕にとって、前日の不摂生もあって多少眠たい。上映後のトークショーで羽仁進氏がこの映画について「論理的思考を映像表現のなかで試みた作」と評し、会ったことのないまま亡くなった佐藤氏に対して「多くの人たちのことを考えている人」だといっていたことに納得した。10年前「阿賀に…」を見たときのように僕には「OUT OF PLACE」はわからないことが多すぎるのだろう。けれども、映画最後のシューベルトのピアノが頭にこびりついている。息子の捻挫で膨張した足の映像とこのピアノの音はこれから10年リンクしていく。
20080920
台風写真
台風が近づいている。
僕が多摩川のそばに住みだして以来数年おきに台風によってこの土手は決壊まではしないが大変なことになってしまう。ブランコは流され野球場はかろうじてベンチが残り、昨日までの草の生い茂った緑を上流からのゴミに埋め尽くされてしまう。去年僕が出くわしたのは、前職を辞める前後のあてもなく、今日と同じように台風の上陸に気がそわそわして土砂降りの中カメラを持って土手まで慌てて飛び出していって目にした風景。朝一番のぎりぎり露出が足りるというくらいの時間に目の前の流れは荒れに荒れていた。あっという間に雨は落ち着きだし、そしてはっきりとした視界に上流から人が手を振りながら見たこともない早さで流れてきた。小屋の屋根にたって真っ茶色になって手を振り続けるその人にシャッターを切っていた。55mmのレンズでは遙か彼方のその一枚は写真としてはどうしようもないモノだった。
トーテンポールフォトギャラリーで開催されている諸星由美恵写真展「足裏にのこる記憶」にいく。DMに一目惚れした。心なしかいつものギャラリーより客が多かったような気もする。同じように1枚のはがきに惚れ込んだ人たちなのだろうか。
机を挟んで向こうかわに見える部屋の様子。ピントの合っていないウーロン茶のペットボトルや酒瓶が、邪魔をするのでなく、写真家に受け入れられている感触が心地よい。コトを発見した際に気負いなく、ふっと対象に目を投げかけている。本当はそうであるはずはないが、発見の喜びとそれをえぐり取ろうとする野心との戦いを、どろどろと見せることなく美しい光のカラープリントで仕上げている。すごい。大変そう。
映画作家の佐藤真氏が亡くなって1年が経った。僕が会社を辞め、台風が土手をめちゃくちゃにしたのも1年前。やっとアテネフランセとユーロスペースで「佐藤真監督回顧」が始まった。「阿賀に生きる」を学生の時初めて目にしてずいぶん考えた。訃報を耳にして以来、佐藤さんが最後に撮った映画のチラシにあるサイードという人の顔らしき表情がずっと気になっていて多摩川とは遠く離れた国パレスチナを故郷とする知識人のインタビュー集を読んでみた。なるほど、この人を佐藤さんは映画の中でおってみたわけだ。来週、まだみていない「エドワード・サイード OUT OF PLACE」をみてみることにした。サイードの本の中に出てきたミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』(西永良成訳)という小説の第六部「天使たち」。音楽家であった父親がベートーベンが最後に辿り着いた変奏曲という陳腐なスタイルについて理解したことを、老衰して言葉を失っていくなかでなんとか息子をピアノのある自室に呼びつけ譜面を指し示し、伝えようとする。自傷する語り部のくだり。
「…
人間は太陽や星々のある宇宙を抱けないことを知っている。だがそれよりも、もう一つの無限、ほんの近くにあって手の届きそうなあの無限を、どうしても取り逃さざるをえないことのほうをずっと耐えがたいと思う。タミナは自分の愛の無限を取り逃し、私は父を取り逃がし、そして各人は自分のなすべきことを取り逃がす。それというのも、人々は完璧を追求しつつ事物の内部に向かうのだが、果てまでいくことがけっしてできないからなのだ。
外界の無限が逃れ去っても、私たちはそれを自然な状態だとして受け入れる。しかし、もう一つの無限を取り逃がしたとなると、死ぬまで自分を責めることになるのだ。私たちはこれまで星の無限のことを考えていたが、私の父が中に持っていたような無限のほうは少しも気にかけなかった。
…(略)…ベートーヴェンもまた(ちょうどタミナが知り、私が知っているように)、私たちが愛した存在、あの十六小節とその無限の可能性の内的世界を取り逃してしまうほど耐えがたいものは何もない、ということをとてもよく知っていたのである。」
引用しておきながら理解に苦しむけれど、足裏にのこった記憶が「変奏曲」であって、佐藤真が向かったのが「シェーンベルク」であった。と言いきってみたい感じになったということだけである。所用の帰り、同じ電車で二人きりになってしまった。しゃべる世間話もなく、初対面で緊張して何も聞けなかったことを思い出す。先細りのケミカルウォッシュにちょいとシャツが出ていたおっちゃんはもういません。
僕が多摩川のそばに住みだして以来数年おきに台風によってこの土手は決壊まではしないが大変なことになってしまう。ブランコは流され野球場はかろうじてベンチが残り、昨日までの草の生い茂った緑を上流からのゴミに埋め尽くされてしまう。去年僕が出くわしたのは、前職を辞める前後のあてもなく、今日と同じように台風の上陸に気がそわそわして土砂降りの中カメラを持って土手まで慌てて飛び出していって目にした風景。朝一番のぎりぎり露出が足りるというくらいの時間に目の前の流れは荒れに荒れていた。あっという間に雨は落ち着きだし、そしてはっきりとした視界に上流から人が手を振りながら見たこともない早さで流れてきた。小屋の屋根にたって真っ茶色になって手を振り続けるその人にシャッターを切っていた。55mmのレンズでは遙か彼方のその一枚は写真としてはどうしようもないモノだった。
トーテンポールフォトギャラリーで開催されている諸星由美恵写真展「足裏にのこる記憶」にいく。DMに一目惚れした。心なしかいつものギャラリーより客が多かったような気もする。同じように1枚のはがきに惚れ込んだ人たちなのだろうか。
机を挟んで向こうかわに見える部屋の様子。ピントの合っていないウーロン茶のペットボトルや酒瓶が、邪魔をするのでなく、写真家に受け入れられている感触が心地よい。コトを発見した際に気負いなく、ふっと対象に目を投げかけている。本当はそうであるはずはないが、発見の喜びとそれをえぐり取ろうとする野心との戦いを、どろどろと見せることなく美しい光のカラープリントで仕上げている。すごい。大変そう。
映画作家の佐藤真氏が亡くなって1年が経った。僕が会社を辞め、台風が土手をめちゃくちゃにしたのも1年前。やっとアテネフランセとユーロスペースで「佐藤真監督回顧」が始まった。「阿賀に生きる」を学生の時初めて目にしてずいぶん考えた。訃報を耳にして以来、佐藤さんが最後に撮った映画のチラシにあるサイードという人の顔らしき表情がずっと気になっていて多摩川とは遠く離れた国パレスチナを故郷とする知識人のインタビュー集を読んでみた。なるほど、この人を佐藤さんは映画の中でおってみたわけだ。来週、まだみていない「エドワード・サイード OUT OF PLACE」をみてみることにした。サイードの本の中に出てきたミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』(西永良成訳)という小説の第六部「天使たち」。音楽家であった父親がベートーベンが最後に辿り着いた変奏曲という陳腐なスタイルについて理解したことを、老衰して言葉を失っていくなかでなんとか息子をピアノのある自室に呼びつけ譜面を指し示し、伝えようとする。自傷する語り部のくだり。
「…
人間は太陽や星々のある宇宙を抱けないことを知っている。だがそれよりも、もう一つの無限、ほんの近くにあって手の届きそうなあの無限を、どうしても取り逃さざるをえないことのほうをずっと耐えがたいと思う。タミナは自分の愛の無限を取り逃し、私は父を取り逃がし、そして各人は自分のなすべきことを取り逃がす。それというのも、人々は完璧を追求しつつ事物の内部に向かうのだが、果てまでいくことがけっしてできないからなのだ。
外界の無限が逃れ去っても、私たちはそれを自然な状態だとして受け入れる。しかし、もう一つの無限を取り逃がしたとなると、死ぬまで自分を責めることになるのだ。私たちはこれまで星の無限のことを考えていたが、私の父が中に持っていたような無限のほうは少しも気にかけなかった。
…(略)…ベートーヴェンもまた(ちょうどタミナが知り、私が知っているように)、私たちが愛した存在、あの十六小節とその無限の可能性の内的世界を取り逃してしまうほど耐えがたいものは何もない、ということをとてもよく知っていたのである。」
引用しておきながら理解に苦しむけれど、足裏にのこった記憶が「変奏曲」であって、佐藤真が向かったのが「シェーンベルク」であった。と言いきってみたい感じになったということだけである。所用の帰り、同じ電車で二人きりになってしまった。しゃべる世間話もなく、初対面で緊張して何も聞けなかったことを思い出す。先細りのケミカルウォッシュにちょいとシャツが出ていたおっちゃんはもういません。
20080910
スナップの若造
スナップ写真を撮り続けている二人の写真家、三浦和人と関口正夫「スナップショットの時間」展にいく。三浦氏の60年代だと思われる静かな写真から展示は始まった。明確な言葉を持たないまま数枚の写真が1枚の印画紙に焼き込められ一つの額縁の中に収まっている。20代の僕であればそのことに引っかかることなく写真のグラデーションと写り込むもののシュールな関係と対比を体で関知し納得することもできたはずだ。それがもうできないと気づかされると同時にこの写真が20代の三浦氏によって選ばれたのではないという想像が頭を巡る。力をなくしていくことに不安なのは僕だけなのではなくそれを選ぼうとあえいでいるその写真家でもある。そして、新宿駅構内から出口に広がる白い光の中にほとんどシルエットとしてしか認識できない子供を抱きかかえた婦人。鳩が群れて羽ばたき高架のアスファルトの夏の蒸気を通過していく。学生たちの騒ぎの遙か後ろで飄々と人物たちの配置の妙をほくそ笑む一人のカメラマンがいる。写真展入口で引っかかったワインの酔いが写真を見る精度を狂わせたのかもしれない。写真は僕の状況にいやがおうにも反応してしまうし、今の僕にはここにある写真が美しく見えて仕方がない。写真家がこの壁に併置するわずかな一点にそれほどの論理も言葉もいらないのだ。しかしながら、スナップというものは僕を少ない脳みそを抽象の隅っこに追いやってしまう悪い薬だ。あんなに具体的な何かに接しているのに僕の頭は言葉でないものに向かいたい願望でふくれあがる。始末が悪い。たまたま出くわしたその光と事物の配列とコトとモノの意味たちを白と黒のグラデーションの集合として矩形で切り取っていくことに、生きる価値など見いだせやしない。明日の目的でさえも不安だ。本当に時間が過ぎるのが早かったし、レセプションのケーキはおいしかった。
スナップ=瞬間。っていくと今ではどうしようもなく陳腐に感じられるようになってしまったのだけれどもシャッターを切る理由はやっぱり瞬間に潜んでいるのではないか。「時間」のおおよその一点をつまみあげ変換する作業である。野口里佳の空を飛べない鳥を長時間露光のピンホールカメラで捉えた作品を思い浮かべた。図書館のアサヒカメラでインタビューを読んだからだろう。あれはカメラの仕組みとしてあわせ持つ全く別の変換作業だ。ずいぶん前、写真を始めた当初の野口の写真には<瞬間>という仕組みが方法としてとりいれられていた。そして、飛べない鳥を用いてそれを排除してみるといった変換方法にまで辿り着く過程を写真表現として短期間に表してきた。このおじさん二人は不器用にもほどがあるが、40年を費やし散布図のように点で散乱した印画紙上の時間のシミを掬い上げ続けてきたのだ。とんでもない徒労であるし、欲望と戦略だ。関口さんには聞いておきたいことがたくさんありそうで、終わりしな会場端から見つめていた。感づかれてにらみ返されたギョロ目に激しく動揺した。「若造、おまえにわかるかぃ?」
スナップ=瞬間。っていくと今ではどうしようもなく陳腐に感じられるようになってしまったのだけれどもシャッターを切る理由はやっぱり瞬間に潜んでいるのではないか。「時間」のおおよその一点をつまみあげ変換する作業である。野口里佳の空を飛べない鳥を長時間露光のピンホールカメラで捉えた作品を思い浮かべた。図書館のアサヒカメラでインタビューを読んだからだろう。あれはカメラの仕組みとしてあわせ持つ全く別の変換作業だ。ずいぶん前、写真を始めた当初の野口の写真には<瞬間>という仕組みが方法としてとりいれられていた。そして、飛べない鳥を用いてそれを排除してみるといった変換方法にまで辿り着く過程を写真表現として短期間に表してきた。このおじさん二人は不器用にもほどがあるが、40年を費やし散布図のように点で散乱した印画紙上の時間のシミを掬い上げ続けてきたのだ。とんでもない徒労であるし、欲望と戦略だ。関口さんには聞いておきたいことがたくさんありそうで、終わりしな会場端から見つめていた。感づかれてにらみ返されたギョロ目に激しく動揺した。「若造、おまえにわかるかぃ?」
20080830
サマーズとスナップ写真
エクセルにはまっている。仕事でそんなに必要もないのに表ばかり作っている。たとえば今週は表の中にある言葉を検索し、文字の色を変えることに一日と半分を費やした。些細なことだ。それがなかなかできない。エクセル風に言うならばブック中のセル内にある特定の文字列を一括して書式を変える、なんて言葉で言わなければならない。セルとは表の、あるひとマスのことをさす。エクセルに標準でついている検索機能ではセルごと書式が変ってしまい、セル内にあるその言葉だけの色を変えることができない。それをVBAと呼ばれるプログラムで考える。僕にはできない。ネットの中には色々親切な人がいて、いろんな便利ツールを作ってくれているのだが、こんな道具を探すことだけに一日かかってしまうのだ。仕組みは表の隅からその言葉を探していき、見つかったところで、その言葉があるセルの中で何文字目にあるのか答えさせ、そのセルの何文字目から何文字目までの文字の色を赤で塗りなさいと命令し、そして対象となる文字がなくなるまでさっきの場所の次の文字から検索を繰り返しなさい、といったものだ。プログラムにはそう書いてあるらしい。もし探している言葉がなかったら…とか、些細なことを想定しておかないとパソコンは止まってしまうらしく、その暗号文の分量たるやたいしたものだ。僕はその呪文をチョイとコピペして自分のエクセルのボタンに貼りこんでやるに過ぎない。それでも目的(なんて明確な!!)を達成して時間が過ぎるのをすっかり忘れている。
サマーズが気になっている。夜に頭だけ疲れて寝付けない体を横にしてだらだらテレビを見ていると、サマーズは現れる。いつも一緒にいるだろうし、何の発見もないであろう相方と30分もずっとテレビの中で話している。些細なことばかりだ。その些細な発見を堂々と吹聴する相方の様をもう一人は喜んでいる。二人の良い関係に、饒舌さに、油ののりを感じる。さっきも都立大学駅周辺をつまらなそうにぶらぶら歩いている二人がテレビに映っていた。時代においてかれたモヤモヤした街をおちょくっりながら二人とテレビ東京のアド街のきれいなおねえさんが散歩しながら時間をつぶすといった番組。毎週見てしまっている。カメラをぶら下げて街をスナップする感覚って…、いつもながらサマーズに考えさせられる。二人にも些細な悪意と愛情がある。最近のダウンタウンのいただけなさはよく耳にするが、靴下に刺繍されたお馬に乗った騎手が動き出し、些細な妄想が終着点を探しながら膨らんでいくかつての二人の会話はもう見られないことを思いつつ、サマーズの二人を見ている。
「三浦和人&関口正夫 スナップショットの時間」展が三鷹市美術ギャラリーでもうすぐ始まる。三浦さんは僕が始めて受けた写真の授業の先生で、そこから写真との付き合いがはじまり、抜け出せないで今までいる。お二人は僕が生まれる前からずっとスナップ写真を撮り続けている。どういうことなのだろう。決して明確ではない、時代に煽られてぶれてしまいそうな目線を持ち続けうる、というのは覚悟なのだろうか。至福なのだろうか。送っていただいたチラシの裏に誰が書いたのか、当たり前でつい忘れてしまいそうな真実がとてもとても丁寧に書かれていた。
「(前略)何が写っているのかはもちろん大切です。しかし、何が写っているのかと何を撮っているのかを簡単に等号で結びつけることはできません。何が写っているのかを通して、その向こう側に何を撮っているのかを、私たちは私たちの経験に即して見ることがきっとできます。すでに撮られた写真は、たとえ自身の撮影したものであっても他者の姿をしています。何十分の一秒、何百分の一秒という時間が作者によってどのように生きられたのか、それを私たち自身の時間として今一度捉え返し、生き直すと言い換えてもよいでしょう。それは決して追体験などではありません。すでに見るものひとりひとりの創造の内にあることです。根源的な出会いの場を求めての想像の時間なのです。」
サマーズが気になっている。夜に頭だけ疲れて寝付けない体を横にしてだらだらテレビを見ていると、サマーズは現れる。いつも一緒にいるだろうし、何の発見もないであろう相方と30分もずっとテレビの中で話している。些細なことばかりだ。その些細な発見を堂々と吹聴する相方の様をもう一人は喜んでいる。二人の良い関係に、饒舌さに、油ののりを感じる。さっきも都立大学駅周辺をつまらなそうにぶらぶら歩いている二人がテレビに映っていた。時代においてかれたモヤモヤした街をおちょくっりながら二人とテレビ東京のアド街のきれいなおねえさんが散歩しながら時間をつぶすといった番組。毎週見てしまっている。カメラをぶら下げて街をスナップする感覚って…、いつもながらサマーズに考えさせられる。二人にも些細な悪意と愛情がある。最近のダウンタウンのいただけなさはよく耳にするが、靴下に刺繍されたお馬に乗った騎手が動き出し、些細な妄想が終着点を探しながら膨らんでいくかつての二人の会話はもう見られないことを思いつつ、サマーズの二人を見ている。
「三浦和人&関口正夫 スナップショットの時間」展が三鷹市美術ギャラリーでもうすぐ始まる。三浦さんは僕が始めて受けた写真の授業の先生で、そこから写真との付き合いがはじまり、抜け出せないで今までいる。お二人は僕が生まれる前からずっとスナップ写真を撮り続けている。どういうことなのだろう。決して明確ではない、時代に煽られてぶれてしまいそうな目線を持ち続けうる、というのは覚悟なのだろうか。至福なのだろうか。送っていただいたチラシの裏に誰が書いたのか、当たり前でつい忘れてしまいそうな真実がとてもとても丁寧に書かれていた。
「(前略)何が写っているのかはもちろん大切です。しかし、何が写っているのかと何を撮っているのかを簡単に等号で結びつけることはできません。何が写っているのかを通して、その向こう側に何を撮っているのかを、私たちは私たちの経験に即して見ることがきっとできます。すでに撮られた写真は、たとえ自身の撮影したものであっても他者の姿をしています。何十分の一秒、何百分の一秒という時間が作者によってどのように生きられたのか、それを私たち自身の時間として今一度捉え返し、生き直すと言い換えてもよいでしょう。それは決して追体験などではありません。すでに見るものひとりひとりの創造の内にあることです。根源的な出会いの場を求めての想像の時間なのです。」
20080823
足らない写真
生活がまた始まり職場のパソコンとの睨み合いが続く。実家からタバコをカートンでいただいてきたにもかかわらず、ポケットに入れ忘れる。駅の売店でライターと一緒にキャスターマイルドを買ったのだが雑誌の山に置き忘れる。翌日朝少し早めに家を出て恐る恐るおばちゃんに「昨日…」と言いかけたとたん棚から紙に包んだタバコとライターをニコニコで渡される。自前の弁当はいつものように箸が入っておらず食堂で悪びれながらカウンターのおばちゃんと目をあわさないように箸をゲット。食事に誘われない限り昼休みに本を読むことにしているのだが、思ったより漢字の多い文章に集中力を切らしているとさっきの弁当が股にぎっしりこびりついている。100粒は超えていた。
先週末に富士山に登ったこと書き留めておかなくてはならない。けれど言葉がなかなか出てこない。7歳のチビ助と二人、メタボと意気地なしのコンビにはえらくこたえた。2年越しのリベンジ。5歳の彼は8合目の宿で晩飯でたいらげたカレーを僕の胸のなかですべてリバースし、不安定な呼吸のまま夜明けを迎えた。今回、それでも下りなければいけない怖さを強くインプットしている体は互いに臆病で、弱った子供にさへツレない宿への怒りや久しぶりにこんなに長い時間手を繋いだ感覚やらで、整理がついていない。頂上まで行ったことは確か。晩飯のカレーを残して僕にくれた。
山頂で小岩井大輔写真展「Mt.FUJI3776」を見た。8年かけて撮りためた富士の写真の展示の前に山小屋で働く本人がいて、チビをだしに使い話しかけるタイミングを待った。多く語らない本人とは違う饒舌な写真だった。
山に行くときはブローニーのネガカラーに6月の編笠山から決めていた。それでもやっぱり、ここでも何にカメラを向けたらいいか解らないままチビの貌ばかりを見てシャッターを押していた。
ギャラリー・ガレリアQの牟田義人さんに写真展のDMをハイペースで頼まれ、このひと月は人の写真に囲まれて息をしている。Qのメンバーの星玄人氏のDMをはじめて作ることになった。前回の展示でも当初DMを依頼されていた。だけどどこか怖かった。その時引き受けたものの僕の引け目を野生で感じ取った星さんから時間都合での断りの電話がやんわり入って安堵した。強い被写体に向っていく写真家だ。写真集でしか写真を知らなかったが、新宿に行くたびに出会ってはいた。話していても宇宙から来た写真家のように感じていた。彼の写真の中には弱者(強者?)として社会から振り分けられたアウトサイダーが多く登場する。魅力を感じてしまった被写体である街の夜に飛び込んでいく。今回、DMに載せる写真の候補をスキャン・レタッチして感じるのは、僕の妄想の中の彼の写真よりはるかに被写体との距離が遠いということだ。ラフプリントのキャビネサイズで人物が小さいということだけでは無論ない。彼との打ち合わせの中でも感じた写真家の変化していくさまを、DMでは伝えられればいいと考える。タイトルの変更を提案し、僕が強くて不安定なこの写真達に感じた言葉をDMにのっけて校正を送った。足らない写真を補いに、すでに現場に向ってしまった星氏からの回答が明日、携帯に来ることになっている。少なからずの緊張がある。
先週末に富士山に登ったこと書き留めておかなくてはならない。けれど言葉がなかなか出てこない。7歳のチビ助と二人、メタボと意気地なしのコンビにはえらくこたえた。2年越しのリベンジ。5歳の彼は8合目の宿で晩飯でたいらげたカレーを僕の胸のなかですべてリバースし、不安定な呼吸のまま夜明けを迎えた。今回、それでも下りなければいけない怖さを強くインプットしている体は互いに臆病で、弱った子供にさへツレない宿への怒りや久しぶりにこんなに長い時間手を繋いだ感覚やらで、整理がついていない。頂上まで行ったことは確か。晩飯のカレーを残して僕にくれた。
山頂で小岩井大輔写真展「Mt.FUJI3776」を見た。8年かけて撮りためた富士の写真の展示の前に山小屋で働く本人がいて、チビをだしに使い話しかけるタイミングを待った。多く語らない本人とは違う饒舌な写真だった。
山に行くときはブローニーのネガカラーに6月の編笠山から決めていた。それでもやっぱり、ここでも何にカメラを向けたらいいか解らないままチビの貌ばかりを見てシャッターを押していた。
ギャラリー・ガレリアQの牟田義人さんに写真展のDMをハイペースで頼まれ、このひと月は人の写真に囲まれて息をしている。Qのメンバーの星玄人氏のDMをはじめて作ることになった。前回の展示でも当初DMを依頼されていた。だけどどこか怖かった。その時引き受けたものの僕の引け目を野生で感じ取った星さんから時間都合での断りの電話がやんわり入って安堵した。強い被写体に向っていく写真家だ。写真集でしか写真を知らなかったが、新宿に行くたびに出会ってはいた。話していても宇宙から来た写真家のように感じていた。彼の写真の中には弱者(強者?)として社会から振り分けられたアウトサイダーが多く登場する。魅力を感じてしまった被写体である街の夜に飛び込んでいく。今回、DMに載せる写真の候補をスキャン・レタッチして感じるのは、僕の妄想の中の彼の写真よりはるかに被写体との距離が遠いということだ。ラフプリントのキャビネサイズで人物が小さいということだけでは無論ない。彼との打ち合わせの中でも感じた写真家の変化していくさまを、DMでは伝えられればいいと考える。タイトルの変更を提案し、僕が強くて不安定なこの写真達に感じた言葉をDMにのっけて校正を送った。足らない写真を補いに、すでに現場に向ってしまった星氏からの回答が明日、携帯に来ることになっている。少なからずの緊張がある。
20080809
『これでいいのだ』と。
ぼくんとこの図書館は携帯から蔵書検索と予約ができる。区内の図書館の蔵書なら普通に翌日最寄の図書館に本が届いたことを知らせるメールが携帯に送られてくる。今年の4月から始まったこのサービス。気になる本があればその場で予約を入れる。返却催促の連絡も携帯にくるようになった。めったにかかってこない家電が鳴ると、図書館からの催促電話で、時には不機嫌に対応しては申し訳ない思いをさせていた。そんなことももうない。
返却期限の切れた本を延長しに夕涼みがてら図書館に行った。いつものようにもう数ヶ月延長を続けている本になんと予約が入っている。「延長できません」「そこを何とか…」「一旦返却してください。」「それじゃぁ、返却しません。ここにこなかったことに…」にやつきながら「一旦返却してください。それじゃぁここで読んでいってください。」閉館までの短い時間ここで読んでいく事にした。
夜、牟田さんの次の写真展のDMを作る。24時までの入稿を目指したいところだったが、先日なくなった赤塚不二夫の葬儀でタモリが読んだ弔辞が気になってどうしようもなく、ネットに向った。サンケイで全文掲載を見つけ読んでからずっと動揺がつづいている。内野の追悼文集の編集作業でおばさんから寄せられた追悼文をはじめて目にしたとき以来の動揺だった。
「(前略)あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。」
今年のフジの27時間テレビはたいそう面白かったようだ。テレビっ子の僕は中学生のころ血眼で27時間、テレビに食らいついていたことを思い出すが、最近は見ていない。今年もいつ放送だったのかさえ気づかずにいたくらいなのだが、僕の周りの数少ない人間の90%(3人)から面白かったという意見を耳にした。僕らはたけし・さんま・タモリが全盛の輝いていたテレビを見て多くの青春を奪われた。彼らは僕らにとっては親戚のおじさんのような存在で、彼らの言葉が常に僕らの言葉であった。そのおじたちが弔辞を読み上げるくらいの年月がったった、のだ。
何も書かれていない紙をめくりながらサングラスごしに発せられた言葉がふと魂を宿した。大袈裟だが。自分の時間の中にいた人間がいなくなるということに対して言葉をつむいでおかなくてはならないという覚悟があり、それを感じる。不安定な言葉はこの危機感によって、時空を深く刻み込み傷つけるための加速度を持つ。えらく遠まわしだが僕がエンエン泣いたということである。たまらない。DMはなかなかできない。写真の問題かもしれない。
今朝、かみさんにタモリのことを聞いてみたが、反応がない。実は昨日の晩御飯で仕事のこと、写真のことを話そうとしてしくじった。すぐにベクトルが生活費の問題に向いてしまった。そこから冷戦中であったことをすっかり忘れていた。派遣先で隣の同世代のSさんに振ってみたがイマイチのリアクション。何人目かで今日のいいともが気になって録画している人に出会った。Mステのタモさんはちょっとだけかっこよく見えた。サザンの桑田が意識しているように見えた。テレビの見すぎだ。娘に電源を切られた。
今日18切符で実家に帰る。フィルムをあわてて買ってきた。もうそろそろタモリ倶楽部の時間だ。
返却期限の切れた本を延長しに夕涼みがてら図書館に行った。いつものようにもう数ヶ月延長を続けている本になんと予約が入っている。「延長できません」「そこを何とか…」「一旦返却してください。」「それじゃぁ、返却しません。ここにこなかったことに…」にやつきながら「一旦返却してください。それじゃぁここで読んでいってください。」閉館までの短い時間ここで読んでいく事にした。
夜、牟田さんの次の写真展のDMを作る。24時までの入稿を目指したいところだったが、先日なくなった赤塚不二夫の葬儀でタモリが読んだ弔辞が気になってどうしようもなく、ネットに向った。サンケイで全文掲載を見つけ読んでからずっと動揺がつづいている。内野の追悼文集の編集作業でおばさんから寄せられた追悼文をはじめて目にしたとき以来の動揺だった。
「(前略)あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。」
今年のフジの27時間テレビはたいそう面白かったようだ。テレビっ子の僕は中学生のころ血眼で27時間、テレビに食らいついていたことを思い出すが、最近は見ていない。今年もいつ放送だったのかさえ気づかずにいたくらいなのだが、僕の周りの数少ない人間の90%(3人)から面白かったという意見を耳にした。僕らはたけし・さんま・タモリが全盛の輝いていたテレビを見て多くの青春を奪われた。彼らは僕らにとっては親戚のおじさんのような存在で、彼らの言葉が常に僕らの言葉であった。そのおじたちが弔辞を読み上げるくらいの年月がったった、のだ。
何も書かれていない紙をめくりながらサングラスごしに発せられた言葉がふと魂を宿した。大袈裟だが。自分の時間の中にいた人間がいなくなるということに対して言葉をつむいでおかなくてはならないという覚悟があり、それを感じる。不安定な言葉はこの危機感によって、時空を深く刻み込み傷つけるための加速度を持つ。えらく遠まわしだが僕がエンエン泣いたということである。たまらない。DMはなかなかできない。写真の問題かもしれない。
今朝、かみさんにタモリのことを聞いてみたが、反応がない。実は昨日の晩御飯で仕事のこと、写真のことを話そうとしてしくじった。すぐにベクトルが生活費の問題に向いてしまった。そこから冷戦中であったことをすっかり忘れていた。派遣先で隣の同世代のSさんに振ってみたがイマイチのリアクション。何人目かで今日のいいともが気になって録画している人に出会った。Mステのタモさんはちょっとだけかっこよく見えた。サザンの桑田が意識しているように見えた。テレビの見すぎだ。娘に電源を切られた。
今日18切符で実家に帰る。フィルムをあわてて買ってきた。もうそろそろタモリ倶楽部の時間だ。
20080802
話すことの余韻
7歳の息子と久しぶりに話し込んだ。祭りから帰ってきて疲れ果てたチビに週末の気楽さにまかせ長い時間つき合わせてしまった。
今日の職場の納涼祭でいつも話したことがない人たちと飲めないビールの勢いで話し込んだ余韻もあったのだろう。いつも顔だけは見ていたが正社員の服を着たまだウブな髭剃りあとがその青年の印象だった。まだ18歳で高校を出て遠い故郷から単身東京に身をおき日々黙々とモニターに向っている。すべて今日知ったことだ。現在19歳。話し始めると訛りをほんのりと残したその口調は自分を制御しきれない抑揚の崩れかけた、だけども懐かしいような響きだった。
僕より遅く祭りから子供をつれて帰宅したかみさんに若い彼の話をして息子が話しに入ってきた。「高校卒業して働けるの?」僕はどう答えたか覚えていない。その青年の弟は進学するそうだ。息子の中でもそんな意識が刷り込まれているのもこのごろでは当然なのかもしれない。夜更かしのお風呂で眠くてアドレナリンたっぷりの甘えた息子が「大学は私立と公立どっちが高いの?」と聞いてきた。そこからオヤジの長い話が始まってしまった。学校の費用は公立では税金で大半がまかなわれていること。何で学校に行くことが義務とされているのか。自然に息子からその言葉が出るように仕向けた。答えは用意していなかったが、しばらく考えて「人を殺さないようにするためだ。」と答えてみた。あっているのだろうか?いつものどっちつかずの父親の態度と違ってきっぱりと答えてみたせいか息子は合いの手を入れながら随分長い時間話に付き合ってくれた。妹のお菓子を取り上げて兄弟喧嘩が勃発すること、日本が朝鮮を侵略し植民地としていたこと、この同じ時間に爆撃を受けて子どもらが逃げさまよっているような土地がまだあること、アインシュタインのこと、じいさんが生まれる前、アメリカが原爆を落としたこと、原子爆弾のエネルギーが去年見た古田の引退間近の神宮ヤクルト阪神戦を観戦する人々の熱狂を優に包み込んでしまうことを、とりとめもなく。前の仕事で毎年行っていた長崎の原爆資料館にあるファットマンが風呂場に入るほどの大きさであったことを言い、今度連れて行くことを約束した。原爆を落としたアメリカと今では仲間ということになっており、そのアメリカが現在も自国外で戦時体制を維持し、僕たちはその仲間である日本に暮らしているということ。さすがに長くなりすぎて「ごめんね。」と謝った。日焼けして焼け野原の僕の背中を剥いてもらおうとのぼせた彼に頼んだが「気持ちわりぃ」と拒否されて、そそくさと洗って出たら「水曜どうでしょう」が始まっていた。なぜか、写真は残したいと思うから撮るのだなぁと、福田内閣改造の大臣たちのしょぼい顔を映像だけ見ながら思った。
今日の職場の納涼祭でいつも話したことがない人たちと飲めないビールの勢いで話し込んだ余韻もあったのだろう。いつも顔だけは見ていたが正社員の服を着たまだウブな髭剃りあとがその青年の印象だった。まだ18歳で高校を出て遠い故郷から単身東京に身をおき日々黙々とモニターに向っている。すべて今日知ったことだ。現在19歳。話し始めると訛りをほんのりと残したその口調は自分を制御しきれない抑揚の崩れかけた、だけども懐かしいような響きだった。
僕より遅く祭りから子供をつれて帰宅したかみさんに若い彼の話をして息子が話しに入ってきた。「高校卒業して働けるの?」僕はどう答えたか覚えていない。その青年の弟は進学するそうだ。息子の中でもそんな意識が刷り込まれているのもこのごろでは当然なのかもしれない。夜更かしのお風呂で眠くてアドレナリンたっぷりの甘えた息子が「大学は私立と公立どっちが高いの?」と聞いてきた。そこからオヤジの長い話が始まってしまった。学校の費用は公立では税金で大半がまかなわれていること。何で学校に行くことが義務とされているのか。自然に息子からその言葉が出るように仕向けた。答えは用意していなかったが、しばらく考えて「人を殺さないようにするためだ。」と答えてみた。あっているのだろうか?いつものどっちつかずの父親の態度と違ってきっぱりと答えてみたせいか息子は合いの手を入れながら随分長い時間話に付き合ってくれた。妹のお菓子を取り上げて兄弟喧嘩が勃発すること、日本が朝鮮を侵略し植民地としていたこと、この同じ時間に爆撃を受けて子どもらが逃げさまよっているような土地がまだあること、アインシュタインのこと、じいさんが生まれる前、アメリカが原爆を落としたこと、原子爆弾のエネルギーが去年見た古田の引退間近の神宮ヤクルト阪神戦を観戦する人々の熱狂を優に包み込んでしまうことを、とりとめもなく。前の仕事で毎年行っていた長崎の原爆資料館にあるファットマンが風呂場に入るほどの大きさであったことを言い、今度連れて行くことを約束した。原爆を落としたアメリカと今では仲間ということになっており、そのアメリカが現在も自国外で戦時体制を維持し、僕たちはその仲間である日本に暮らしているということ。さすがに長くなりすぎて「ごめんね。」と謝った。日焼けして焼け野原の僕の背中を剥いてもらおうとのぼせた彼に頼んだが「気持ちわりぃ」と拒否されて、そそくさと洗って出たら「水曜どうでしょう」が始まっていた。なぜか、写真は残したいと思うから撮るのだなぁと、福田内閣改造の大臣たちのしょぼい顔を映像だけ見ながら思った。
20080723
まずは忘れないためにグーグルカレンダーに
グーグルのカレンダーに最近は命日を入れることが多くなった。そんなに周りがばたばたと倒れるような年頃ではないが、不精な僕には故人を忘れない方法としてグーグルが助かっている。死んでしまう前にたくさんの事を聞けなかったことをあれだけ悔やんでも、次の年には亡くなった季節さえ曖昧になっていく。幾度と記憶をリフレインし、自分の生に織り込んでいくのが人の性であるのだろうけど、僕は忘れてしまう。やっぱり不精に尽きるが、そういう仕組みを具え持っているとポジティヴに思ってみてもいい。グーグルには「毎年」という設定があるから、来年の3日前に携帯メールでお知らせしてくれる。具え持った能力に少し抵抗してみる。
仕事帰りの図書館でアサヒカメラを見る。写真家、柳沢信氏の追悼文を眼にして、氏がすでにいなくなってしまっていたことを忘れていたことに気づいた。寄稿された柳本尚規氏はゼミの先生で、多くの写真に関わることを学んだし、当時は反発したりもした。柳本さんに見せてもらった写真集の一つに柳沢信「写真」があった。それからずっと写真のことを思うたびに頭から離れない。困った写真だ。はっきりと柳沢氏の写真を言葉にしたことなどないので、ついて離れないとしか言いようがない。そして追悼を寄せた柳本さんの言葉は、僕にとってひりひりと痛いものがある。いつもながら。
亡くなったばかりの評論家草森紳一氏の言葉を引用して柳沢氏の写真を掬い上げる。「「……一見何ということもない写真であるけれど、(略)しみじみと迫るものがある。この『しみじみ』は曲者である。この曲者こそ、『写る』ということである。/北風がやってきて暗くなった漁村。この暗さに、柳沢信はなんら象徴を求めはしないだろう。(略)彼の目をひいたのは、北風の暗い空の下で、岸に打ち寄せる波であった。その波に彼の心は(略)敬虔に構えた。ここにあるのは波らしい波ではなく、波の環境が誠実に写されているのだ。(略)その波のそばにたつ家並みは、そのような岸辺を波が洗っている時、暗雲の下でどのように静かにたたずんでいるかを、柳沢は誠実に写しとっているのだ。ここには『写る』がある。自然の時間、人間の時間を奪う、しみじみとした冒険がある」(「カメラ毎日」1966年2月号)」
「…つまり、写真が被写体とカメラと撮り手の三つからなるならば、被写体のすでに持っている意味を言葉で説明できるものは視覚的には無視しておけばいい、また撮り手の思想や個性という得体の知れない不確実なものは放っておけばいい、…」といって柳沢さんの「写真の機能を『観察』という機能だけに絞ってカメラを使ったほうが、被写体が語りかけてくる言葉を印画紙の上でより自由に語らせることができるのではないか」という主張を説明している。これは柳沢さんだからできるのであって「並みの写真家は言葉の手助けを得てやっと写真を表し、その言葉の部分を読者になぞってもらって「作品」として流通させているのが、今なお変らぬ実態である。」とまで…。
「柳沢さんの写真を好きだという人たちは、自分こそが写真の何たるかを理解できているものの一人だと自負を持った。」
抜き出すと暴言のようだが、それくらい強い愛情であると感じた。
そこまで立ち行かない僕はあらためて本棚の写真集に目をやろうとしている。まずは忘れないためにグーグルに書き込んだ。
仕事帰りの図書館でアサヒカメラを見る。写真家、柳沢信氏の追悼文を眼にして、氏がすでにいなくなってしまっていたことを忘れていたことに気づいた。寄稿された柳本尚規氏はゼミの先生で、多くの写真に関わることを学んだし、当時は反発したりもした。柳本さんに見せてもらった写真集の一つに柳沢信「写真」があった。それからずっと写真のことを思うたびに頭から離れない。困った写真だ。はっきりと柳沢氏の写真を言葉にしたことなどないので、ついて離れないとしか言いようがない。そして追悼を寄せた柳本さんの言葉は、僕にとってひりひりと痛いものがある。いつもながら。
亡くなったばかりの評論家草森紳一氏の言葉を引用して柳沢氏の写真を掬い上げる。「「……一見何ということもない写真であるけれど、(略)しみじみと迫るものがある。この『しみじみ』は曲者である。この曲者こそ、『写る』ということである。/北風がやってきて暗くなった漁村。この暗さに、柳沢信はなんら象徴を求めはしないだろう。(略)彼の目をひいたのは、北風の暗い空の下で、岸に打ち寄せる波であった。その波に彼の心は(略)敬虔に構えた。ここにあるのは波らしい波ではなく、波の環境が誠実に写されているのだ。(略)その波のそばにたつ家並みは、そのような岸辺を波が洗っている時、暗雲の下でどのように静かにたたずんでいるかを、柳沢は誠実に写しとっているのだ。ここには『写る』がある。自然の時間、人間の時間を奪う、しみじみとした冒険がある」(「カメラ毎日」1966年2月号)」
「…つまり、写真が被写体とカメラと撮り手の三つからなるならば、被写体のすでに持っている意味を言葉で説明できるものは視覚的には無視しておけばいい、また撮り手の思想や個性という得体の知れない不確実なものは放っておけばいい、…」といって柳沢さんの「写真の機能を『観察』という機能だけに絞ってカメラを使ったほうが、被写体が語りかけてくる言葉を印画紙の上でより自由に語らせることができるのではないか」という主張を説明している。これは柳沢さんだからできるのであって「並みの写真家は言葉の手助けを得てやっと写真を表し、その言葉の部分を読者になぞってもらって「作品」として流通させているのが、今なお変らぬ実態である。」とまで…。
「柳沢さんの写真を好きだという人たちは、自分こそが写真の何たるかを理解できているものの一人だと自負を持った。」
抜き出すと暴言のようだが、それくらい強い愛情であると感じた。
そこまで立ち行かない僕はあらためて本棚の写真集に目をやろうとしている。まずは忘れないためにグーグルに書き込んだ。
20080715
記憶の自家用車
2004年2月に中古で手に入れたデミオを10万キロ乗り潰し廃車にすることにした。廃車業者というものを調べてみるといろいろあって、一斉見積もりサイトを使って合見積を取ってみて少々驚いた。城山解体という会社が業者からのみ1台40000円以上で買取を行っていることをたまたま新聞広告で見かけた。よくラジオのCMで名前を聞く社名だ。見積もりを取ったのはそこに至る中間業者ということになるのだが、最大手ガリバーは買取なんてとんでもないということだった。車持参ならただで引き取ってくれるところ、買取価格は数万円だが数々の手数料を引いたらいくらにもならないところ、様々。買い取り可能というメールでの返事に怪しみながらも一社に電話をしてみると心地よい対応。傷だらけのデミオであることを念を押して15000円の確約、ついでにこの価格で千葉県野田市所在の会社が車引取りにも着てくれるという。野田市と聞いて、ドライブがてら野田清水公園のアスレチックにでも行って不安は残るが車を持参することにした。怪しい会社ならここで断ってくるだろうと踏んだのだが、「儲けがないんですけど」と前置きしつつも5000円アップを提示してくれる。夜遅くに電話してもいつでも電話に快く対応してくれる点で、社員が血眼で働かされているブラック会社を想像しつつの、デミオ最期のドライブとあいなった。
出発前に車の前で家族で記念写真を撮った。カラーネガフィルムをつめたFM2を三脚で立てた。どれも倉庫代わりの車の中に眠っていた機材たちである。ガソリンの高騰からか日曜日だというのに渋滞にひっかかりもせず目的のアスレチックに程なくつき、チビが難なくこなしていく姿と赤くほてった手の皮に自分の体重をおもい知った。散々筋肉を痛めつけたあと約束の時間より早く廃車屋さんへ向かう。
なんとなく見慣れた感じの旧街道沿いにはアンバーめの光の中、祭りのちょうちんがまばらに風もなく下がっている。その店は想像に難く、普通の建売一軒家に派手な看板をつけただけのような慎ましやかなたたずまいであったが、お店の入口らしからぬドアを開けると中には最新のコンピューターが並んでいてしっかりとクーラーの利いた事務所であった。一通りの書面を交わし、車の確認をするわけでもなく20000円の入った袋を手渡された。これでさよならだ。息子はほってた体でうつむいて何故だか目頭が熱くなるのをこらえていたようだ。デミオと共有したいくつかの思い出がよみがえってくるような年齢に彼もなったのだ。確かにいろんなことがあった。
このあいだ、息子とデミオの中で思い出話をしていた。「あれは白い車のときだったよね」という息子の言葉に、車の記憶と共に幼いころの多くの記憶が脳裏にインプットされていることにおもいやった。
白い車とは前職で営業車両として会社より与えられていた中古ポンコツのミラだ。社用車を私用していたわけだが、息子の記憶にはミラが存在がまにあっている。2、3才の頃の記憶だ。
ファミリーアルバムに写り込んだ自家用車は不意にその一枚に時代を繋ぎあわす鍵をあたえる。赤いスズキのアルトと共にまだ隣家とのあいだにコンクリ壁のなかった実家の姿が浮かぶ。それは記録から写真へ、写真から記憶へ変換された赤い車だ。
廃車屋さんで手続きをしてくれたふくよかなお姉さんが野田清水の駅まで僕らを送ってくれた。その車も色違いのデミオだった。助手席から遠くに観覧車がみえる。ジャスコに昔からある観覧車だそうで、古いくせに最近は500円に値上がりまでして誰も乗らないそうだ。今日がこの辺りのお祭りということらしいが、地元でないので良くは知らないとのこと。駅に曲がる道を間違えて随分さきでUターンをして戻ってきて駅に着いた。「また、よろしくお願いします。」だって。駅舎らしい建物すらない東武線の駅で階段で見えなくなるまで見送ってくれた。
出発前に車の前で家族で記念写真を撮った。カラーネガフィルムをつめたFM2を三脚で立てた。どれも倉庫代わりの車の中に眠っていた機材たちである。ガソリンの高騰からか日曜日だというのに渋滞にひっかかりもせず目的のアスレチックに程なくつき、チビが難なくこなしていく姿と赤くほてった手の皮に自分の体重をおもい知った。散々筋肉を痛めつけたあと約束の時間より早く廃車屋さんへ向かう。
なんとなく見慣れた感じの旧街道沿いにはアンバーめの光の中、祭りのちょうちんがまばらに風もなく下がっている。その店は想像に難く、普通の建売一軒家に派手な看板をつけただけのような慎ましやかなたたずまいであったが、お店の入口らしからぬドアを開けると中には最新のコンピューターが並んでいてしっかりとクーラーの利いた事務所であった。一通りの書面を交わし、車の確認をするわけでもなく20000円の入った袋を手渡された。これでさよならだ。息子はほってた体でうつむいて何故だか目頭が熱くなるのをこらえていたようだ。デミオと共有したいくつかの思い出がよみがえってくるような年齢に彼もなったのだ。確かにいろんなことがあった。
このあいだ、息子とデミオの中で思い出話をしていた。「あれは白い車のときだったよね」という息子の言葉に、車の記憶と共に幼いころの多くの記憶が脳裏にインプットされていることにおもいやった。
白い車とは前職で営業車両として会社より与えられていた中古ポンコツのミラだ。社用車を私用していたわけだが、息子の記憶にはミラが存在がまにあっている。2、3才の頃の記憶だ。
ファミリーアルバムに写り込んだ自家用車は不意にその一枚に時代を繋ぎあわす鍵をあたえる。赤いスズキのアルトと共にまだ隣家とのあいだにコンクリ壁のなかった実家の姿が浮かぶ。それは記録から写真へ、写真から記憶へ変換された赤い車だ。
廃車屋さんで手続きをしてくれたふくよかなお姉さんが野田清水の駅まで僕らを送ってくれた。その車も色違いのデミオだった。助手席から遠くに観覧車がみえる。ジャスコに昔からある観覧車だそうで、古いくせに最近は500円に値上がりまでして誰も乗らないそうだ。今日がこの辺りのお祭りということらしいが、地元でないので良くは知らないとのこと。駅に曲がる道を間違えて随分さきでUターンをして戻ってきて駅に着いた。「また、よろしくお願いします。」だって。駅舎らしい建物すらない東武線の駅で階段で見えなくなるまで見送ってくれた。
20080709
転職希望理由
再就職活動用に目新しいサイトを見つけたので登録してみることにした。半年ほど前書いた転職希望理由というのも何だかそこがわれていて歯がゆいのであらためて書いてみた。本音では仕事の優先順位を生活の中からさげてしまいたいのだけど、実際必要とされていないと肌身でわかると、心に悪い思考が頭に蔓延してしまって、困ったものだ。どうせ嘘で包み尽くして採用をはねられてきたのだから、なるべく嘘をつかない方法で今回は試してみる。甘ったるいことは承知だけれど物は試し。以下は転職希望理由080708バージョン
「当たり前のことですが、生きていく中で何かを成し遂げることは難しいものだとあらためて感じるようになってきています。残された時間を、何でもできるのではないかという若気の至りだけを引きずっていては、何も理解することなく人生が過ぎ去ってしまうのではないかと遅ればせながら焦りも感じつつあります。
小学5年生の夏に自宅にやってきた東芝のルポで当時はやっていたテレビゲームの攻略本を作りクラスで評判となってからは、我がクラスの学級新聞だけは活字でした。FMラジオ雑誌が全盛の中学1年生のころからカセットテープのレーベルを自分で作るようになり、レタリングに興味を覚えました。新聞屋の実家に転がるグラフ雑誌を食い入るように目をやり、マッキントッシュというコンピューターがあれば僕らを魅了してやまない小説や雑誌を自分で文字組みレイアウトできるということを高校生になって知りました。美大を目指したのは何となく所属していた理数系のクラスがなじめないと感じたからでした。デザイン学科に入ったもののそこで出会ったのは写真でした。写真には多くのことを教わりました。そして現在でも共に生きています。学生時分はじめて友と作った写真の同人誌は写植でした。学校にあった印刷部屋でなれない写植の硝子盤に目を凝らしていました。今とは違ってまだ情報の少ない中で見つけ出した安い印刷屋さんもまだコンピューターには対応していませんでしたし、マッキントッシュにはやはり手が届きませんでした。それでも時代は加速していき、卒業前に作った最後の本ではDTPとまではいかないにしても写植からは離れていました。
社会に出て紆余曲折ありましたが、再就職という現実に直面してあわててではありますが振り返ってみますと、インクのにおいと活字と写真で埋め尽くされた「本を作る」仕事に自分は就くべく今まで生きてきたのだと感じました。」
最後は無理やり理由にしただけで、ひねりがない。追々直していける仕組みで、更新しているほうが企業の閲覧率も高いようなので、特にそのまま登録してしまった。明日になったらまた書き直しているのだろう。
霧雨の中派遣先からチャリンコでの帰り道。いつものように多摩川土手を下っているとお昼休みに見たヒョロっとしたチェックの服がはるか前を傘もささずに歩いているのを見つけた。この雲行きだとこれから土砂降りだというのにベルの音にも気づかず無心に歩いている。後で聞いたら、やんちゃなやつらに絡まれると思い、後ろを振り向かなかったようだ。S君の真横に自転車をつけて、お昼休み以来の再開に、ニヤ付く。そういえばS君の顔は最初ぎこちなかった。昼休みのベルがなり、弁当が寂しいと思いつつ自席の暗い蛍光灯の下でうだうだしていると、大抵ニコッと笑って遠くから古めかしい親指を使ったジェスチャーで食堂の100円お惣菜コーナーへ僕を誘ってくれる。何を話すでもないが、彼から若かりし悩みを打ち明けられたことはなく、どちらかというと僕のほうがそんな態度かもしれない。若い、すがすがしさに陰りがない。そのS君が 一人霧雨にぬれていた。映画のカメラマンを仕事ではなく続けていこうとしている彼は、よく歩いて帰っていることを僕につげ、屈託なく先日撮った反対岸のアジサイのデジカメデータを見せてくれる。次の橋を渡らなければ随分先まで川を渡れないから「ここで渡る」といってすかさず駆け戻ってきて「やっぱ次の橋まで見たことのない景色を見に行ってみます。」といって時期に、「先が見えないんで戻ります。」と軽やかに言って引き返していった。すぐ土手をあがれば家だったが、次の橋までそれなら僕がいってみようと思ったが、やっぱ土砂降りの雲を目の前に引き返した。家に着くと激しく雨音が窓をたたいた。S君はかさも役立たず、ずぶ濡れだろう。
「当たり前のことですが、生きていく中で何かを成し遂げることは難しいものだとあらためて感じるようになってきています。残された時間を、何でもできるのではないかという若気の至りだけを引きずっていては、何も理解することなく人生が過ぎ去ってしまうのではないかと遅ればせながら焦りも感じつつあります。
小学5年生の夏に自宅にやってきた東芝のルポで当時はやっていたテレビゲームの攻略本を作りクラスで評判となってからは、我がクラスの学級新聞だけは活字でした。FMラジオ雑誌が全盛の中学1年生のころからカセットテープのレーベルを自分で作るようになり、レタリングに興味を覚えました。新聞屋の実家に転がるグラフ雑誌を食い入るように目をやり、マッキントッシュというコンピューターがあれば僕らを魅了してやまない小説や雑誌を自分で文字組みレイアウトできるということを高校生になって知りました。美大を目指したのは何となく所属していた理数系のクラスがなじめないと感じたからでした。デザイン学科に入ったもののそこで出会ったのは写真でした。写真には多くのことを教わりました。そして現在でも共に生きています。学生時分はじめて友と作った写真の同人誌は写植でした。学校にあった印刷部屋でなれない写植の硝子盤に目を凝らしていました。今とは違ってまだ情報の少ない中で見つけ出した安い印刷屋さんもまだコンピューターには対応していませんでしたし、マッキントッシュにはやはり手が届きませんでした。それでも時代は加速していき、卒業前に作った最後の本ではDTPとまではいかないにしても写植からは離れていました。
社会に出て紆余曲折ありましたが、再就職という現実に直面してあわててではありますが振り返ってみますと、インクのにおいと活字と写真で埋め尽くされた「本を作る」仕事に自分は就くべく今まで生きてきたのだと感じました。」
最後は無理やり理由にしただけで、ひねりがない。追々直していける仕組みで、更新しているほうが企業の閲覧率も高いようなので、特にそのまま登録してしまった。明日になったらまた書き直しているのだろう。
霧雨の中派遣先からチャリンコでの帰り道。いつものように多摩川土手を下っているとお昼休みに見たヒョロっとしたチェックの服がはるか前を傘もささずに歩いているのを見つけた。この雲行きだとこれから土砂降りだというのにベルの音にも気づかず無心に歩いている。後で聞いたら、やんちゃなやつらに絡まれると思い、後ろを振り向かなかったようだ。S君の真横に自転車をつけて、お昼休み以来の再開に、ニヤ付く。そういえばS君の顔は最初ぎこちなかった。昼休みのベルがなり、弁当が寂しいと思いつつ自席の暗い蛍光灯の下でうだうだしていると、大抵ニコッと笑って遠くから古めかしい親指を使ったジェスチャーで食堂の100円お惣菜コーナーへ僕を誘ってくれる。何を話すでもないが、彼から若かりし悩みを打ち明けられたことはなく、どちらかというと僕のほうがそんな態度かもしれない。若い、すがすがしさに陰りがない。そのS君が 一人霧雨にぬれていた。映画のカメラマンを仕事ではなく続けていこうとしている彼は、よく歩いて帰っていることを僕につげ、屈託なく先日撮った反対岸のアジサイのデジカメデータを見せてくれる。次の橋を渡らなければ随分先まで川を渡れないから「ここで渡る」といってすかさず駆け戻ってきて「やっぱ次の橋まで見たことのない景色を見に行ってみます。」といって時期に、「先が見えないんで戻ります。」と軽やかに言って引き返していった。すぐ土手をあがれば家だったが、次の橋までそれなら僕がいってみようと思ったが、やっぱ土砂降りの雲を目の前に引き返した。家に着くと激しく雨音が窓をたたいた。S君はかさも役立たず、ずぶ濡れだろう。
20080702
写真の果て
写真の果ては粒子であると思っていた。プリントは少なくとも画面の中心に粒子がカチッと現われて、白から黒にいたるまでの濃淡を存分に使っていれば美しいし、それでモノとしての深みが出るような気がしていた。モノクロームのプリントのことである。学生のころフィルムセンターでの企画展ではじめて中平卓馬の60年代のプリントを見て慄いた。当時の印刷物たちからは心のブレと光の荒々しさは感じたが、そこで見た現物にあった美しさは知る由もなかった。
DxO opticsという現像ソフトのプラグインとして発売されているFilmpackはデジカメデータをフィルムのニュアンスで補正してくれる。20種類くらいの擬似フィルム補正データがあって、色調、コントラストだけでなく粒状感も各フィルムとフィルムサイズの特徴を再現する。T-maxやNeopanもある。インクジェットでプリントしてみると粒子の美しさを感じることができる。精緻に比べたわけではないが、もしかすると、「果て」を越えてしまっているのかもしれない。もしかするとであるが。
日曜日、母方の祖父の三回忌で静岡の実家に帰った。(今月半ばで生涯を終えるオンボロマツダデミオの最期の長旅であった。)ここ数年、親族の葬儀が続き、実家での写真は葬式ばかり。じいさんの本葬以来撮影を続けている。最中、あまりにパシャパシャ撮っていたので、かみさんからは「業者じゃあるまいし」とたしなめられたが、ついには喪主(母の兄=オジ)から経費が出た。即日、子供のときから使っていた今はなき「光写真館」へ現像に出し、アルバムにつめ親族皆でじいさんの亡骸をながめ感慨にふけった。不思議な経験をした。
通夜の晩、飲み助たちが帰った深夜の納棺の済んでいないじいさんの横にオジがちょこんと背を丸めて胡座をかいて座っている。どんよりとした瞼でその黄色くなった顔をぼんやり眺めている。遠くから体の悪い小さくなったばあさんが杖に手をかけ台所のいすに腰掛け二人(じいさんとオジ)を見ている。僕もじいさんの顔を拝みにきたのだが、時計の音が聞こえるくらい静かな蛍光灯の下でしばらく腰をおろして黙っていた。怖気づきながらもオジの正面でカメラを構えた。オジとばあさんは動かない。もちろんじいさんも。シャッター音の後フィルムを巻き込むワインダー音が響いてしばらくしてオジが小さく「これでええか。」といった。鯨幕が扇風機でゆれる。
今回、三回忌にはデジカメも持っていったがやはり不器用なフィルムカメラで撮った。
DxO opticsという現像ソフトのプラグインとして発売されているFilmpackはデジカメデータをフィルムのニュアンスで補正してくれる。20種類くらいの擬似フィルム補正データがあって、色調、コントラストだけでなく粒状感も各フィルムとフィルムサイズの特徴を再現する。T-maxやNeopanもある。インクジェットでプリントしてみると粒子の美しさを感じることができる。精緻に比べたわけではないが、もしかすると、「果て」を越えてしまっているのかもしれない。もしかするとであるが。
日曜日、母方の祖父の三回忌で静岡の実家に帰った。(今月半ばで生涯を終えるオンボロマツダデミオの最期の長旅であった。)ここ数年、親族の葬儀が続き、実家での写真は葬式ばかり。じいさんの本葬以来撮影を続けている。最中、あまりにパシャパシャ撮っていたので、かみさんからは「業者じゃあるまいし」とたしなめられたが、ついには喪主(母の兄=オジ)から経費が出た。即日、子供のときから使っていた今はなき「光写真館」へ現像に出し、アルバムにつめ親族皆でじいさんの亡骸をながめ感慨にふけった。不思議な経験をした。
通夜の晩、飲み助たちが帰った深夜の納棺の済んでいないじいさんの横にオジがちょこんと背を丸めて胡座をかいて座っている。どんよりとした瞼でその黄色くなった顔をぼんやり眺めている。遠くから体の悪い小さくなったばあさんが杖に手をかけ台所のいすに腰掛け二人(じいさんとオジ)を見ている。僕もじいさんの顔を拝みにきたのだが、時計の音が聞こえるくらい静かな蛍光灯の下でしばらく腰をおろして黙っていた。怖気づきながらもオジの正面でカメラを構えた。オジとばあさんは動かない。もちろんじいさんも。シャッター音の後フィルムを巻き込むワインダー音が響いてしばらくしてオジが小さく「これでええか。」といった。鯨幕が扇風機でゆれる。
今回、三回忌にはデジカメも持っていったがやはり不器用なフィルムカメラで撮った。
20080626
若い写真家の確信
下平氏の写真展に仕事の帰りに向かう。新宿コニカの受付の3人のお姉さんはいったい何をしているのか気になるところだし、フォトプレミオの大賞展だって気になるところだったが、一目散に下平竜矢写真展「星霜連関」の解説文を探した。内野の追悼展の企画で出会って以来の短い間柄だが、トーテムポールギャラリーでの追悼展を希望したのは彼で、内野webサイトのたちあげでは実務でてんやわんやしていただいた。内野の会では一見控えめにたたずむ彼は、ちょっと前までサラリーマンをしていた僕にとっては物足りなく、自ら手を上げておきながら主張してこない身振りに少なからずいらだっていた。一人の頼りなげな青年だった。
昨日もガレリアQの牟田氏に会ったのだが、ほとんど人としゃべらない派遣生活の中では牟田さんとの会話が50%位を占めている。以前も書いたが牟田さんのDMをここしばらく作っていて下平君から「牟田さんのDMどういうことを気にして作ってるんですか?」ってほとんどしゃべりかけたりしてこなかった彼が福添氏の写真展会場の隅で突然聞いてきたことに動揺してなんと答えたのかはっきりしていない。フォントをたくさん使わない、見たいな事を答えた気もする。1999年にこの同じコニカでみた牟田さんの「帰去来」の穴のたくさんあいたクリーム色の壁に飾られたモノクロームを目の前にしたとき感じた何らかの動揺が「星霜…」にはあった。
昨日見た写真のことだけでよかった、のかもしれない。写真を見つめていると若い彼の姿が浮かんだ。知らなかったのならどう見えたのか、もうわからない。写真の深い黒の中には自分のむくんだ姿が時折浮かぶ。様ような祭事のコスプレに身を包んだ人達に対峙する青年は衣装の手元からはみだした腕時計や不釣合いでまじめなめがねのフレームに重い核心でファインダーを覗き込んでいる。ひょうきんなお面に顔を隠した神々のポートレートは見終わった後では一人の人間の表情として僕の頭の中にはインプットされている。関東近郊で執り行われたとされる祭事は僕の住む町の中での出来事でもあるにもかかわらず遠い。けれど、入れないという写真が抱え込んでいた疎外感ではなく、一人の若者が、この国に含まれているというふうに実感していることと、つながっているということに核心を抱いているかのような感覚が、変に僕の胸底に響いてくる。祭りや歓喜を取材する行為は特別ではなく、ありふれている。写真家はその特別な場から破綻や民俗めいた表層を掬い取り、構成し情念を喚起する。アーバス、フランク、須田一政。スナップ写真の意味が社会に伝わらなくなってしまった今、撮影者は常に世間から監視され、存在を許されていない。デジタルな小さなカメラたちはガタイにそぐわない高倍率のバズーカを備え、ほとんどの人がその効力を理解している。そうでないということを主張するために正方形のフォーマットは有効だ。そして、若者は再度、かつて幼いころに属していたホームらしき社会へ去来する。また、居場所を見出せなくなる。僕のことか。
そうではない、核心めいた作為が下平の写真にはみなぎっていて、打たれた。
昨日もガレリアQの牟田氏に会ったのだが、ほとんど人としゃべらない派遣生活の中では牟田さんとの会話が50%位を占めている。以前も書いたが牟田さんのDMをここしばらく作っていて下平君から「牟田さんのDMどういうことを気にして作ってるんですか?」ってほとんどしゃべりかけたりしてこなかった彼が福添氏の写真展会場の隅で突然聞いてきたことに動揺してなんと答えたのかはっきりしていない。フォントをたくさん使わない、見たいな事を答えた気もする。1999年にこの同じコニカでみた牟田さんの「帰去来」の穴のたくさんあいたクリーム色の壁に飾られたモノクロームを目の前にしたとき感じた何らかの動揺が「星霜…」にはあった。
昨日見た写真のことだけでよかった、のかもしれない。写真を見つめていると若い彼の姿が浮かんだ。知らなかったのならどう見えたのか、もうわからない。写真の深い黒の中には自分のむくんだ姿が時折浮かぶ。様ような祭事のコスプレに身を包んだ人達に対峙する青年は衣装の手元からはみだした腕時計や不釣合いでまじめなめがねのフレームに重い核心でファインダーを覗き込んでいる。ひょうきんなお面に顔を隠した神々のポートレートは見終わった後では一人の人間の表情として僕の頭の中にはインプットされている。関東近郊で執り行われたとされる祭事は僕の住む町の中での出来事でもあるにもかかわらず遠い。けれど、入れないという写真が抱え込んでいた疎外感ではなく、一人の若者が、この国に含まれているというふうに実感していることと、つながっているということに核心を抱いているかのような感覚が、変に僕の胸底に響いてくる。祭りや歓喜を取材する行為は特別ではなく、ありふれている。写真家はその特別な場から破綻や民俗めいた表層を掬い取り、構成し情念を喚起する。アーバス、フランク、須田一政。スナップ写真の意味が社会に伝わらなくなってしまった今、撮影者は常に世間から監視され、存在を許されていない。デジタルな小さなカメラたちはガタイにそぐわない高倍率のバズーカを備え、ほとんどの人がその効力を理解している。そうでないということを主張するために正方形のフォーマットは有効だ。そして、若者は再度、かつて幼いころに属していたホームらしき社会へ去来する。また、居場所を見出せなくなる。僕のことか。
そうではない、核心めいた作為が下平の写真にはみなぎっていて、打たれた。
20080624
flickrからbloggerへの投稿
flickrってまえまえから聞いてはいたけど、すごいことになっているのかもしれない。日本語使えんなら使わない!!とイキがっていたが、一言語だからこそ写真のタグ検索がグローバルで、世界とすっと繋がっていくことにやっとこ気づいた。グローバルなんて大嫌いだけど、仕方ない。日本の写真は閉塞気味だし、世界に吊り上げられるのは色物ばかりだ。flickrに負けました。
flickrから直接bloggerのweblogには投稿ができる。つい先日windows Live writerを使い出したばかりだけど乗り換えた。如何せん行間が詰まってしまう。何とかならないものか。それと、bloggerから直しを入れると写真のキャプションが消えてしまうよ…。
flickrから直接bloggerのweblogには投稿ができる。つい先日windows Live writerを使い出したばかりだけど乗り換えた。如何せん行間が詰まってしまう。何とかならないものか。それと、bloggerから直しを入れると写真のキャプションが消えてしまうよ…。
カメラ雑誌の現在
日本カメラ2008年7月号に内野雅文の京都の写真がやっと掲載された。生前本人が持ち込んだものである。たった8点の写真であるが、内野のまだ未完であったそのシリーズをそうっと手を差し伸べて新たなる意味へ導いてくれるような、意思のこもった強いセレクトだと感じた。本誌には内野について石井仁志氏も寄稿されているのだが、「型にはまった特別な京都を見出すことはなかった」とあるが内野自身はまだその特別な京都を脱しできていなかったし、それゆえもがくそぶりも選びきられていない六つ切りバライタの写真群からは強くは感じられなかった。内野の見た京都から処世の不変を救い上げる作業を成し遂げるまでが写真家内野雅文本人のやり遂げねばならなかったことだったのだが、あのような終わりを遂げたことはご承知のとおりである。遺作となった京都の残された写真の中には信じがたいくらいの達観したやさしさとともに拭いきれない京都の京都たる表層で覆い尽くされていて、正直不満で生きていたのならばまた、小一時間文句をたれていたのかもしれない。そこを埋める作業をするには4月の追悼展では間に合わず、5月の176では展示途中で日本カメラから戻ってきたプリントをあわせて再度構成しなおしてまでいただいた友長氏も、同じ痒さを共有していたのだと思う。日本カメラ編集長の前田さんとは、どんなお方なのだろうか。この8ページはひとつの模範解答である。天国から見えるだろうか。こうやって写真は選ぶのだよ。実家でお小遣いをもらって機嫌の良いカミさんの緩んだ財布で娘のペネロペと一緒に久しぶりにカメラ雑誌を購入した。
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