20080910

スナップの若造


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Originally uploaded by hiroomis2008
スナップ写真を撮り続けている二人の写真家、三浦和人と関口正夫「スナップショットの時間」展にいく。三浦氏の60年代だと思われる静かな写真から展示は始まった。明確な言葉を持たないまま数枚の写真が1枚の印画紙に焼き込められ一つの額縁の中に収まっている。20代の僕であればそのことに引っかかることなく写真のグラデーションと写り込むもののシュールな関係と対比を体で関知し納得することもできたはずだ。それがもうできないと気づかされると同時にこの写真が20代の三浦氏によって選ばれたのではないという想像が頭を巡る。力をなくしていくことに不安なのは僕だけなのではなくそれを選ぼうとあえいでいるその写真家でもある。そして、新宿駅構内から出口に広がる白い光の中にほとんどシルエットとしてしか認識できない子供を抱きかかえた婦人。鳩が群れて羽ばたき高架のアスファルトの夏の蒸気を通過していく。学生たちの騒ぎの遙か後ろで飄々と人物たちの配置の妙をほくそ笑む一人のカメラマンがいる。写真展入口で引っかかったワインの酔いが写真を見る精度を狂わせたのかもしれない。写真は僕の状況にいやがおうにも反応してしまうし、今の僕にはここにある写真が美しく見えて仕方がない。写真家がこの壁に併置するわずかな一点にそれほどの論理も言葉もいらないのだ。しかしながら、スナップというものは僕を少ない脳みそを抽象の隅っこに追いやってしまう悪い薬だ。あんなに具体的な何かに接しているのに僕の頭は言葉でないものに向かいたい願望でふくれあがる。始末が悪い。たまたま出くわしたその光と事物の配列とコトとモノの意味たちを白と黒のグラデーションの集合として矩形で切り取っていくことに、生きる価値など見いだせやしない。明日の目的でさえも不安だ。本当に時間が過ぎるのが早かったし、レセプションのケーキはおいしかった。
スナップ=瞬間。っていくと今ではどうしようもなく陳腐に感じられるようになってしまったのだけれどもシャッターを切る理由はやっぱり瞬間に潜んでいるのではないか。「時間」のおおよその一点をつまみあげ変換する作業である。野口里佳の空を飛べない鳥を長時間露光のピンホールカメラで捉えた作品を思い浮かべた。図書館のアサヒカメラでインタビューを読んだからだろう。あれはカメラの仕組みとしてあわせ持つ全く別の変換作業だ。ずいぶん前、写真を始めた当初の野口の写真には<瞬間>という仕組みが方法としてとりいれられていた。そして、飛べない鳥を用いてそれを排除してみるといった変換方法にまで辿り着く過程を写真表現として短期間に表してきた。このおじさん二人は不器用にもほどがあるが、40年を費やし散布図のように点で散乱した印画紙上の時間のシミを掬い上げ続けてきたのだ。とんでもない徒労であるし、欲望と戦略だ。関口さんには聞いておきたいことがたくさんありそうで、終わりしな会場端から見つめていた。感づかれてにらみ返されたギョロ目に激しく動揺した。「若造、おまえにわかるかぃ?」

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