20081103

さまぁ〜ずとスナップ写真2


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Originally uploaded by hiroomis2008
写真展を見に谷中に行く。学生の時以来だ。町を少しだけ歩いた。霊園を過ぎるとぞくぞくしたあのときの街の感じが伝わってきた。初めて何も知らずに訪れ感じた雰囲気を残している希な街だ。統一されたレトロ調の木製看板や芸能人の写真を張り巡らせた惣菜屋さんの活気を失わぬよう努力続けている商店街の手本である感じは何処でも変わらない。所詮なじみにはなれずに通り過ぎるなら、おいしくって雑多であればいい。若者やおしゃれな店がその香りをかぎつけて街を変えていくのも、商店街の永続に役立ては文句はない。けれど、例のモヤモヤ感はないのかもしれない。「サマーズ」を「さま~ず」に前の日記で訂正したのだけれど、「さまぁ〜ず」が正式コンビ名のようだ。さまぁ〜ずが歩くにはふさわしくないというだけのこと。そんな町のチョイはずれのガラス工房で中藤毅彦氏の流氷の写真をみた。まず写真が先にあってその写真にあわせて工房のお姉さんがガラスの額を制作したとのこと。写真が小さく寂しかった。粒子の見えない中藤氏の写真は柔らかだった。写真とガラス細工という行為があからさまに違うということを当然のことではあるが強く感じた。
ガレリアQの牟田さんに紹介された南谷洋策さんのDMを現在考えている。現役の医者でありながら写真を発表し、同時にコントラバス奏者として生きている。打ち合わせでは気長に僕ののんびりした写真セレクトにつきあっていただいた。いつも他人の写真を見て気になることはこのカメラを構えた人間がどの立ち位置で、目の前にある世界と対峙しているのかということである。医者であるということとコントラバスを弾く行為も併せて写真を撮るということの一個人の視点になりうるのではないかという南谷さんの心意気に深く感銘している(こんなわかりやすう物言いではないが…)。それでも立ち位置など関係がないと主張する写真には一本の筋を見つけることができるが、立ち位置に心が及んでいない写真には辟易する。
今、机の上にあるポルトガルでのモノクロームのポルトガルである理由を尋ねたらフェルナンド・ペソアという詩人の生きた町をたずねたかったのだそうだ。「微明」というタイトルは老子の言葉から来ている。写真に写り込んだモノとコトと濃淡と南谷さんの照射する言葉から、脳みそのシナプスをつなぐ道を何とか偽装でもいいから作ろうとしている。

老子/微明第三十六
將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
【まさにこれを歙(おさ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。まさにこれを弱くせんと欲すれば、必ず固くこれを強くし、まさにこれを廃(はい)せんと欲すれば、必ず固くこれを興(おこ)し、まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれを与う。これを微明(びめい)と謂う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強に勝つをしる。魚は、淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。】
http://books.google.co.jp/books?id=oHNeeUz6IaIC&pg=PA123&lpg=PA123&dq=%E5%BE%AE%E6%98%8E&source=web&ots=yxLr6ymgUy&sig=qxxUXkgmnUOE6clWtStmdm5g9Bw&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=8&ct=result#PPA123,M1
の訳がわかりやすかった。

「不穏の書、断章」フェルナンド・ペソア(澤田直 訳編・思潮社)の解説によると「われわれを震撼させるこの無限の空間の沈黙を、ソレアス(ペソアの異名)は、宇宙の広大さにではなく、日常のごく些細な場面のいたるところに見出すのだが、それを彼は、円環を閉じることを無意識のうちに拒否することで逃れようとし、そのことによって、まさに、〈無限〉そのものをそこに宙づりにしつつ現出させるのだ。」と書かれている。まさに〈モヤモヤ〉ではあるが、僕は正直ペソアに(そして僕自身に)、もっと外へ出ろよ!!若造、っていってやりたい気分になるくらい、彼(ペソア)が解説のいう「円環」を閉じ忘れている気がしてならなかった。

 …ところが、ついうっかりして、行動を起こしてしまうことがある。私の仕事は意志の結果ではなく、意志の弱さの結果なのだ。私が始めるのは、考える力がないためだし、私が終えるのは中断する勇気がないからだ。つまり、この本は私の怯懦(きょうだ=おくびょう)の結果なのだ。…(P136、解説)

図書館で借りたその本には二つの付箋が残っていた。その一つ

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もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子に座ったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。魂が悲しむことさえしなければ。(P39)

手元にある南谷さんの六切りのバライタを眺めながら難問に顔を引きつらせてみるのだが…、そんなことより写真展会場でのコントラバスの演奏を聴けば解決することなのかもしれない。楽しみ。

中藤氏の小さな写真をみた後、都区内フリー切符を購入していたついでに秋葉原に降りた。金曜夜の秋葉原で小さなデモ行進が行われていた。カメラを向けられることを意識したコスプレの彼らを撮ってはみたが何も見えなかった。が、しかし、カメラをナップから出していた弾みでうっかりしてスナップ写真を撮ってみてしまった。内野雅文が夜に徘徊した街の人種とはちがう秋葉原に光源を探した。ちょっと震えた。どうやら僕はスナップ写真を初めて撮ったようだ。スナップ写真について語る言葉など全然持ちあわせていないことが少しだけわかった。

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